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排泄行為論 第5節
第5節 目次
- 第5節:糞尿問題の将来
- (5.1):ユーゴー
- (5.2):下水道史概観
- (5.2.a) a:欧米の場合
- (5.2.b) b:日本の場合
- (5.3):下水道の本質
- (5.3.a) a:下水道の機能
- (5.3.b) b:下水処理
- (5.3.c) c:流域下水道
- (5.3.d) d:個人下水道
- (5.4):携帯便器(おまる)の将来性
- (5.5):未来をふくむ現在
- (5.5.a) a:空気・水・食べ物
- (5.5.b) b:植物・細菌・古細菌
- (5.5.c) c:生命活動とエントロピー
- (5.5.d) d:地球圏
- (5.5.e) e:未来をふくむ現在
- あとがき
- 文献
(5) 糞尿問題の将来
(5.1):ユゴー
ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』の最後ちかく、主人公ジャン・ヴァルジャンが、バリケードで負傷し気を失っている青年マリユスをかついで、パリ市街の地下の下水道に入り、それを抜けて青年の祖父の館まで送り届ける。そして、この長編小説の大団円が近づく。
パリ市街地下の下水道を抜けて行くという、この長編の最後のクライマックスの前に、ユゴーは「巨獣のはらわた」という章をおいた。その冒頭は次のようになっている。
パリは年に2千5百万フランという金を水に投げ込んでいる。これはたとえ話ではない。どうやって、どういう方法で?昼も夜もである。どういう目的で?目的もなしに。どういう考えで?考えもなしに。なんのために?なんのためでもなしに。どういう器官をつかって?そのはらわたによって。はらわたとは?下水道である。(井上究一郎訳 河出書房新社1989 河出世界文学全集10 p369)
ユゴーはこの「巨獣のはらわた」で、彼の下水道論を展開するのである。下水道の改良を論じるというより、その下水道によって垂れ流しされている糞尿の価値を称揚する、という論の持って行き方である。その意味では、
糞尿論ともいえる。
そこで、小論では、ユゴーの「巨獣のはらわた」の糞尿論に関連して、見えてくる問題をいくつか指摘しておきたい。
糞尿が肥料として優れていることは「シナ人」の方がよく知り、よく利用しているとユゴーはいう。
科学は長いあいだ摸索したあげく、こんにちでは、肥料のなかでいちばん土地を肥やし、いちばんきき目があるのは人肥だということを、知るようになる。恥ずかしい話だが、シナの人のほうがわれわれよりも先にそのことを知っていた。エッケベルクの話では、シナの百姓は町に出ると、われわれが汚物と呼ぶものを2つの桶になみなみと入れ、竹竿の両端にさげてはこんでかえらないということがないそうだ。人肥のおかげで、シナの土地はこんにちもアブラハム時代と変わりなく若い。(同 p369)
このように価値のある糞尿を、下水道によって川へ捨て、海へ吐き出す。そのことによって「土地はやせ、水は汚れる。飢えが田野から起こり、病気が川から起こる」。ユゴーはこのように論じて、パリの下水道を断罪する。
都市パリが行っているこの「おどろくべき気のきかなさ」は古代ローマ以来のことだ、とユゴーは歴史的な展望を行う。
「ローマの下水は」とリービッヒは言っている、「ローマの農民の福利をすっかりのみつくした」ローマの田野がローマの下水道によって荒れはてたとき、ローマはイタリアをおとろえさせたのであり、さらに、イタリアを下水に流してしまった以上、シチリアも、サルジアも、つぎにアフリカも下水に流しさった。ローマの下水道は世界をのみこんだ。(強調は引用者 同p370)
要するに、パリはこの古代ローマの下水道と変わりのない、田野を荒廃せしめる下水道を持っていると、警鐘を鳴らしているのである。(「第2編 巨獣のはらわた」は6節にわかれている。ここまでに簡単に紹介したような糞尿論と古代ローマ以来の下水道史のほかには、19世紀に入ってからの、つまりユゴーにとっての現代史であるパリの下水道の調査や、拡張について述べている)
上引でユゴーが言及していた
J.リービッヒ(1803〜73)は、有機化学の理論的出発点を画するドイツの有名な化学者である。パリのソルボンヌ大でゲイリュサックに学んでいる。リービッヒはユゴー(1802〜85)と完全な同時代人であり、ユゴーの下水道論に影響を与えている。「ユーゴーは、中国へ旅行をしたリービッヒから、中国人がし尿を土に返している、という話を聞き、またリービッヒの『有機化学の農業利用』を読んでいたという」(岡並木『舗装と下水道の文化』p100)。『有機化学の農業利用』(1840)は、それまで理論的追及で成果を上げたリービッヒが、応用方面に向かったときの著書で、肥料の3要素、窒素・リン酸・カリを主張し、農芸化学の基本をつくった。つまり、植物の生長や栄養にかんする分析的追及の出発点となる、重要な著作である。
皮肉なことに、この「
肥料の3要素説」が日本の大学では「植物は無機肥料だけでいい」と短絡的に教えられており、戦後の人糞肥料・有機肥料否定の「化学肥料万能」の考え方に拍車をかけていたという(岡前掲書p100)。つまり、植物は土中の栄養を窒素・リン酸・カリの無機栄養として吸収するのだから、それらを化学肥料として直接与えればよい、という理論的な説明である。「戦後、化学肥料の増産が可能になると、[日本]政府も有機肥料の必要を全く認めようとしなかった」(同p100)という。「肥料の3要素説」が化学肥料万能の理論的根拠とされていたのである。日本では1970年頃から、農家の現場から化学肥料だけを続けた農地が“死んで”しまっている現実が突きつけられ、有機栄養をたっぷり含んだ“生きている土壌”の重要性が再認識されるようになる。
植物が有機質を直接吸収することも分かってきただけでなく、無数の土中生物が豊富に生きている土壌中でこそ農作物も健康に育つことが分かってきた。
健康な農作物こそ食料として優れているという原点の再認識である。そして、健康な農作物は健康な土壌に育つという原点である。
ちょっと脇道にはいるが、ここで、土壌微生物に関連する良書を3冊紹介する。
デヴィッド・W・ウォルフ『地中生命の驚異』(青土社2003)は実に面白い本で、知的好奇心をかき立てられる。ここに関連する1事例だけ紹介する。ほとんどの陸上植物は土中に下ろしている根において、地中の真菌類・細菌類と共生しているのだという。マメ科植物の窒素固定細菌との共生はよく知られているが、それは(非常に重要な)一例にすぎない。そういう真菌類・細菌類を「菌根」類というらしいが、土中の水分やミネラル分を植物が吸収できる形にして根に提供している。植物の方は、地上で光合成した栄養を根を介して真菌類に与えている。そのようにして、植物と真菌類は共生関係で結びついている。地中深く広く張りめぐらされた菌糸網によって、植物同士がつながっていることなども確かめられている。あるカエデから隣のカエデへ養分が移ることが放射性のカルシウムや燐を用いて実証されている。マメ科の植物によって固定された大気中の窒素が、菌根菌の働きによって隣のマメ科ではない植物に移ることも分かっている、という(前掲書p141)。
われわれが植物を食料としてたべるとき、けして、地中の無機栄養素と光合成の成果を食べている、というような簡単なものではないのである。陸上植物は、土中に広大に広がる“地中生物圏”に根をおろして、それらと結びついて、地上での永続的な生存をかちとっているのである(永続的というのは、人類の“文明世界”の寿命数百〜数千年に比較してのことだが)。「化学肥料万能」が可能だと思えたのはほんの数十年間でしかなかった。わたしたちが食物を食べるとき、35億年の生命進化史の総体を食べている、と考えるべきである。わたしたちの「食べ物のほとんどは生きものである」し、私たち自身が生命進化史の上に生存していることは、間違いないことだ。
服部勉『大地の微生物世界』(岩波新書1987)を読んで驚いたことは、土壌中の細菌については、ほとんどが未知である、ということだ。コッホの「平板法」(ペトリ皿の上に寒天やゼラチンの培養基を平らにつくり、その上にうすく細菌を塗布する。数日〜数週間でコロニーができる)でコロニーを作る土壌細菌は全体の1%程度に過ぎないのだという。
残りの99%は、培養基の栄養に反応せず増殖しないのである。従って、研究の対象にならない。たとえば水田の微生物は「地球上の陸地に住む微生物たちで、もっともよく研究されている例」(p108)であるのだという。そこには、土1グラムあたり数十億個の細菌がいる(これは、顕微鏡で直接数える)。しかし、さまざまに用意されている培地で活動してコロニーを作るのは、そのうちわずか0.1%以下である。
つまり研究の対象となった働く細菌は、水田に住む細菌全体のなかの、わずか0.1%以下である。それでは、他の99.9%の細菌は、何をしているのであろうか。(同p108)
「自然発生説を批判した時のパストゥールの考え方は、微生物は栄養物が与えられれば、必ず増殖が起こるということであった」(p162)。しかし、「土をはじめとする自然に住む微生物のなかで増殖中であるものはきわめて少なく、むしろ例外的であるといえよう」(p196)。また、増殖する細菌でも、コロニーを作って肉眼に見えるようになるほどの多量の増殖は「むしろまれである」。数回分裂して止まってしまうようなケースも多いのだという。
微生物についていえば・・・・・・研究されたのは、平板状でコロニーを形成するもののうち、ごくごく一部に過ぎない。しかもコロニーを作る微生物は、全体の1パーセント程度であると考えると、地球上にはいかに未知微生物が多いか想像されよう。(同p203)
勝木渥『物理学に基づく環境の基礎理論』(海鳴社1999)も、知的好奇心をかき立てられるすばらしい本である(この本は、槌田敦らにはじまる「エントロピー学会」の環境論の現在の到達点を示している。その骨格は次節5.5「未来をふくむ社会」で紹介する)。ユニークな挿話が多数入っていて興味をつないでくれ、どんどん読み進められる。その中から、動物と植物の比較、動物の消化管と土壌の比較をしているところを紹介する。
植物は、水や養分を大地の土壌から根によって吸収する。そのために植物、特に根のある植物は、成体となってからは位置の移動が自由にはできない。
動物が自由に移動できるのはなぜか。それは、環境を体内に取り込んでいるからである。すなわち、、植物にとっての土壌に相当するものを消化管として体内に取り込み(唾液から始まって、土壌中の微生物に相当する数々の消化酵素が、消化管の中ではたらいている)、生命発生時の海に相当するものを血液として体内に取り込んでいるからである。腸壁あるいは絨毛は、植物の根あるいは根毛に相当している。
植物の立場に立つと、土壌はわれわれの胃や腸に相当している。今、化学肥料の乱用等によって、土が病んでいると言われるが、、それを「植物語」に翻訳すれば、植物たちはわれわれの胃腸病に相当する病を患っている、と言えよう。胸焼けや下痢に悩むようなとき、われわれは病む土に生うる植物の苦悩にも思いをいたすべきである。(p127〜8)
(なお、この勝木渥の本を手に取ったら、ぜひ「まえがき」と、「あとがき」以下の長文の「謝辞」や「第2刷にあたってのコメントと追加」をも読むべきである。)
『レミゼラブル』の執筆は1845年から48年にかけて初稿、長い間中断されたのち完成は1862年である。この時期は、パリでやっと近代的な下水道工事がはじまった時期にあたっている。パリでは1808年頃に下水渠(開渠式)が20kmぐらい整備されていた。パリ名物の大下水道は、汚水・雨水・道路上のゴミなどを全部受け入れ、上水道・ガス管などの共同埋設も兼ねている。その建設は、第2帝政(1852〜70)の始めから終わりまで、1852年に総延長140km、1869年には560kmとなっていた。
この頃の下水は、汚水を都市内部から外部へ移送し、そこで放出する機能を持っていただけで、下水処理という発想がなかった。汚水を放出されるセーヌ川が余りにも汚れるので、下水の出口をつけ替えて、下流に移したのもこの頃である。同じことはイギリスでも生じており、ロンドンではテームズ川の汚臭がひどくて国会議事堂で審議にさしつかえたほどだったという
下水道の建設は、ロンドンの方が、やや先行していたようである。19世紀前半に下水道の設置が進むに従って、それまでは市内から馬車で屎尿を農村へ運び出していたのが、汚物を下水道に捨て下水道はテムズ河に放出することになった。見市雅俊『コレラの世界史』(晶文社1994)に1827年の文書が示してあるので、それを引用させていただく。
つぎに、水質の悪化。[「タイムズ」の編集者である] ライトはつぎのように言う。「これだけおおぜいの人間がこれだけ狭い空間に集まったことは、これまでの文明史になかったと思う。」この「メトロポリス」を横断するテムズ河の水質が悪化している。原因は汚物のタレ流しである。以前はテムズ河にゴミを投棄することが処罰の対象になった。ところが、[以下、引用は、ライトの1827年文書]
ここ数年の間に、その点にかんする首都の条例がまったく正反対のものになった。3世紀前であれば違法行為とみなされ、処罰の対象となった行為が、いまでは住民に対して義務として実行するように奨励されているのである。この問題の権威であるサー・ギルバート・ブレーンによれば・・・・・・『これまで各家庭の汚物はすべて汚物だめに集め、清掃人に・・・・・・汲み取ってもらっていた。ところが、現在では下水道管理委員会がそれをすべて下水道に流すことを住民に許可したばかりか、奨励しているのだ。』・・・・・・以前は膨大な量の汚物が馬車に積み込まれ、肥料として農地に散布されていたが、いまや下水道を使ってテムズ河にタレ流すことを認められたのである。
・・・・・・(かつては)排泄物は農村に送られていた。それが今や、西はチェルシーから東はロンドン塔まで139もある放水口から昼夜を分かたずテムズ河に放出されているのだ。テムズ河は「ひとつの巨大な下水道」と化した。その水を水道会社は市民に給水しているのである。(p153 [ ]内は引用者注)
興味深いことは、この文書で19世紀前半まではロンドンの市中の屎尿が周辺農村へ肥料として運び出され散布されていたことが分かることである。また、下水道によってテムズ河が汚れ、しかもそれを水道の源水として使っているために、市民は薄まった汚水を口にすることになっている(この点については、下の
(5.2.a)節で扱った)。ヨーロッパでのコレラの最初の流行は、前掲文書の直後の1830〜32年頃とされる。
安田徳太郎はド・カンドル(1806〜93)の『植物生理学』を示しながら、ヨーロッパでも人糞尿を肥料に使用していたことを指摘している。
ところで世界中で、アジアの水田耕作民だけが、人間さまの大小便を肥料にしてい
るというのは、大いにでたらめである。ド・カンドルも、はっきり、ヨーロッパの農民は大昔から家畜の糞尿だけでなく、人間さまの大小便をも、さかんに肥料に使っていたと述べている。(『人間の歴史』3-p88)
ロジェ=アンリ・ゲラン『トイレの文化史』(大矢タカヤス訳 筑摩書房1987)は理論書としてきちんとしており、レベルの高い良書である。先に引用した『やんごとなき姫君たちのトイレ』の種本の1つになっているようだ。その中で、スペインのムーア人たちが人糞肥料をよく使用したという記述がある。
屎尿水に肥料としての効果があるということは中世以来知られており、その散布は
主にスペインのムーア人によってよく実行されていた技術なのである。(p137)
つまり、ヨーロッパでも人糞尿を肥料にすることは知られていたし、実施されていた。だが、その方法は十分に普及していたとは言えず、近世日本におけるように至るところに汲み取り式便所が作られ農民が争って都市の糞尿を汲み取りにくるようなことはなかった。つまり、ヨーロッパにおいては個別に、または民族によっては人糞尿を肥料としていたが、それが都市の便所と結びついた広汎なシステムとして一般化してはいなかった。このことは、ヨーロッパ都市の便所(私用便所・公衆便所)の未発達の原因となり、携帯便器(おまる)の普及を促したと考えられる。(これらのことについては、前節の末尾「
便所の普及」でも述べておいた)
19世紀西欧にはユゴーのような人糞肥料論者がいたのに対して、その一方では人糞肥料の否定論(人糞肥料は有害であるという論)もあったようである。というより、人糞肥料否定論のほうが多数派で、ユゴーは「巨獣のはらわた」で“蒙を開く”というスタンスをとっていた、と考えられる。
『トイレの文化史』は、人糞尿が肥料に適するかどうかの「実験」が行われたことを述べている。1869年からパリ市の予算が付き、実験農場で屎尿水を肥料に使い、牧草を育て、それで牛を飼い、その「牛乳とバターは土木学校の実験室で分析され、欠陥なしと認定された」(p138)ということである。これは、日本でいえば明治2年のことであった。ヨーロッパでは人糞尿を肥料とする農業技術が成立しておらず、普及してはいなかったことが、この「実験」実施によって示されているといってよいと思う。
(5.2):下水道史概観
下水道は、都市の存在を前提にしているとしてよいであろう。都市住民の糞尿の排泄問題が下水道と関連してくる。しかし、下水道の役割は、糞尿排除だけではないので、以下しばらくは(5.2節、5.3節)、糞尿問題よりやや視野を広げて見ることになる。
最初の都市は、宗教=政治的神殿を中心にし城壁にかこまれていたとされ、たいへん古くから存在していた。
都市の誕生は前6千〜前1千年紀にアジアの数ヵ所で別々におこったと考えられている。前5000年のメソポタミア東部中央のジャルモと,パレスティナのヨルダン川西岸のイェリコ,前3千年紀のメソポタミア南部のウルとインダス川右岸のモヘンジョ・ダロ,さらにナイル川や中国の渭水でも前2000年より以前に都市が立地していたことが知られている。(田辺健一 平凡社百科事典「都市」項目)
都市内部に生じる排泄物・生活排水は、はじめは雨水の排水に使われる自然水路・掘割などを通じて河川へ運ばれ、都市外部へ排除されたであろう。都市計画が行われるようになれば、人工水路や側溝などの開渠式の下水路が造られるようになったであろう。
BC25世紀の古代インドのモヘンジョ・ダロやハラッパーの都市遺跡にはすでに、上下水道の優れた施設ができていた。古代アッカド人たちのメソポタミアの都市(BC22世紀)にも水洗便所や下水道遺跡がある。
だが、不思議なことに、古代ギリシャの都市では、下水道はおろか便所の遺跡さえ発見されていないという。
ギリシャの都市に対する精力的な発掘にもかかわらず、ギリシャの住宅に便所があったという考古学的な資料は、ただの1つも発見されていないし、また公共便所があったという証拠も全くない。(川添登『裏側から見た都市』NHKブックス1982 p76)
川添登のこの本で知ったのだが、高津春繁訳のギリシャ戯曲のなかに「糞垂れ小路」というものが出てくるという。調べてみるとアリストパネス「平和」だった。この戯曲はビックリするようなスカトロ系の作品だった(有名なことなのかも知れないが、わたしはギリシャ戯曲にまったく暗いので)。そこで、やや詳しく紹介してみる。
「平和」は、アテナイの農民トリュガイオスの二人の奴隷が、糞置き場で糞をこね回し、大きな糞団子をつくっている場面から始まる。その糞団子はトリュガイオスが飼っている巨大な黄金虫(糞転がし)に餌として与えるためのものなのだ。トリュガイオスはペロポネソス戦争が長引くのに腹を立てて、天のゼウスと談判するためにその黄金虫に乗って天空高く舞い上がっていこうとしている。
舞い上がろうとする主人トリュガイオスに奴隷のひとりが、「何のために、この気違い沙汰」をするのか、と問いかける。それへのトリュガイオスの答え。
静かに、不吉なことは
ひと言も口にしてはならんのだ、万歳をとなえろ。
告げよ、人みなに、しずまれと。
雪隠と糞垂れ小路を
新しい煉瓦で塞げよ、
尻の穴には栓をしろ。
引用は、『世界古典文学全集12』(高津春繁編 筑摩書房1982 p175 強調は引用者)。「糞垂れ小路」に訳注がついていて、「昔のギリシャの町では、家と家の間に路地があって、そこには汚物がいっぱい溜まっていたらしい」としている。上引の少し先には「小便小路」が出ているが、同じものを指しているように思える。(ついでに、「雪隠」が出ているのだから、ギリシャ住宅からの考古学的資料はなくとも、便所はあったのであろう。)
日本平安末の都市を反映しているであろう「伺便餓鬼」の図(
第4.6節)を思い出す。またそでは、世界の各地の都市に「糞便小路」があったことを述べておいた。
食事をすれば雑排水は生じるし便所はなくとも排泄行為はあったわけで、汚物の都市外部への排除は必ずしなければならなかった。それを自然的な排水路でまかなうことのできた都市もあったであろう。だが、人口密集や下水量の多少によって、人工的な排水路(道路側溝や下水溝)をつくったり、人力・荷車などで汚物・塵芥を都市外部へ排除することが必要となったであろう。排水路の悪臭や不潔(伝染病への配慮)から、暗渠になったり管路となったりする。
下水路が必要となるもうひとつの理由は、降水の排除である。降水量の違いによって下水道が担う重要度に違いが出てくることになるが、都市内部に溢水が生じないようにすることを目的とする。ほんとうは、こちらの理由の方が汚物排除より先行しているかも知れない。
河川に沿った土地に都市が生まれ、もともとあった自然水流が排水路として使われるようになる。必要とあらば、運河・下水溝などが人工的に作られるようになる。湿地帯の排水によって土地を広げたり、埋め立て地をつくり、そこに都市が作られていく。そういう場合は、ことに排水の機能が重要である。河川管理と下水道とが関連してくる。
下水道の重要な機能をふたつ挙げておく。
ギリシャ文化を受けついだ古代ローマに、すでに下水道があったことはユゴーも熱弁をふるっていたように、よく知られている。ローマの上下水道や道路については、ここでは触れないことにする。しかし、ローマ帝国衰亡とともに、帝国の誇る道路や下水道なども衰亡し、ヨーロッパの中世都市にその下水道は引き継がれることはなかった。不潔で疫病が流行する長い中世となる。
(5.2.a):欧米の場合
産業革命によって都市に人口が密集し、工場の煤煙・廃液によって汚染された劣悪な環境が極限にまで達した、そのはてに、ヨーロッパでの
近代的下水道がはじまる。つまり、ヨーロッパの近代的下水道は、劣悪化する都市環境を改善するために必然的に・試行錯誤的に作られていったものである。日本の場合のように欧米先進のお手本を見ながら造っていったのとは、根本が異なる。
ここで、有名なエンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』(岩波文庫 上下 1990)を参照しておこう。ドイツ・プロイセンで1820年に生まれたフリートリッヒ・エンゲルスが、父の経営する工場の事務を執るためにイギリスのマンチェスターへ行ったのは1842年のことである。
当時のマンチェスターは人口約40万の一大工業都市で、イギリスのみならず、世界の木綿工業の一大拠点であった。そこでは蒸気力と機械類が用いられ、分業の著しい進展のもとに、大規模に生産が行われていた。(一條和生・杉山忠平 同書解説 上巻p319)
エンゲルスは、短い「第1章 工業プロレタリアート」で、工業が集中し人口が集中し都市が形成されることを述べている。そのうえで、長い章である「第2章 大都市」で非常に多彩な資料を集めて、ロンドンやマンチェスターの大都市で生活する工場労働者や貧民の現実を示す。たとえば、次のような具合である。
「これらの街路は」と、都市の労働者の健康状況にかんする論文のなかで、あるイングランドの雑誌が伝えている。「これらの街路はしばしばひじょうに狭いので、一軒の家の窓から向かいの家の窓へわたれるほどである。家は何階にも高くつみかさなっているので、そのあいだの裏小路や横町にはほとんど日が入らない。町のこの部分には下水溝も、その他、家に属する排水口や便所もない。そのため、少なくとも5万人から出るごみくずや排泄物がすべて毎晩側溝に放りこまれる。その結果、街路をどんなに清掃してもひからびた糞便の山に悪臭が生じるために、視覚と嗅覚が害されるだけでなく、住民の健康も極度におびやかされる。・・・・ たいていの場合、住居はたった一部屋で、換気がきわめて悪く、それでいて窓は割れ、窓わくのたてつけも悪いために寒い――ときにはじめじめしていて、一部は地下にある。寝具は常にとぼしく、まったく住み心地が悪い。だからひとやまの藁がしばしば家族全員のベッドとしてつかわれ、その上で男も女も、老いも若きも、言語道断なざこ寝をしている。水は共同ポンプからしか手に入らない。」(上p84)
わたしは、ここではもうひとつ、下水問題に結びつきそうな箇所を引用することにする。若いエンゲルスの視線を感じることもできる箇所である。
[マンチェスター旧市街の]大通りから多くの裏小路に通ずる、上を建物でおおわれた多数の通路が右左に走り、そこに入ると、他に類例のない不潔と、不快きわまるよごれのなかに入りこむ。ことにアーク川に下る裏小路がそうであり、そこにはこれまでにわたしが見たなかで、無条件にもっとも醜悪な住居がある。このような裏小路の1つでは、上を建物でおおわれた通路がおわっている入口のすぐそばに、ドアもない便所がある。この便所たるやきわめて不潔であって、それをとりまく腐敗した大小便のよどんだ水たまりを通らずには、住民は裏小路に入ることも、裏小路から出ることもできない。・・・・[デューシィ橋から見下ろすと] 谷底をアーク川が流れている、あるいはむしろよどんでいる。それは狭い、真っ黒な、悪臭のする川で、ごみくずを多数浮かべ、より平坦な右岸のほうに流れ寄せられている。乾いた天候のときには右岸に長い一列の不快きわまる黒緑色のぬかるみが生じ、その底からはたえず瘴気性ガスのあわがたち、水面から14ないし15フィートもある橋の上でさえ、耐えがたいほどのにおいを発生させている。・・・・ 橋の上手には丈の高い鞣し工場があり、さらに先には、染色工場や骨粉製造所、ガス製造工場があって、そこからの排水や排物はことごとくアーク川に運ばれる。アーク川はそのほかに、これに接続する下水溝や便所の中身も受け取る。(上p107〜109 [ ]は引用者)
エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』執筆は1844〜45年に故郷にもどって行われた。
産業革命に伴ってうまれた工業都市の劣悪な住居環境・都市環境は明らかだとしても、ただそれだけでは、未熟なブルジョア国家が下水道を完備した衛生的な都市環境をつくるべきであるという方向に自発的に向かうものではない。その方向へ財政投下・都市改造をうながしたのは、「新型流行病 コレラ」であった。
コレラはインドのガンジス流域の風土病であったとされるが、それが全世界的な流行を示したのは、19世紀になってからである(第1次流行1817〜)。コレラは世界交通と劣悪な都市環境によって出現した「19世紀型」の世界的流行病といえよう。
パスツールの「生物の自然発生説否定」の有名な“白鳥の頸フラスコ”による実験は1862年のことである。コッホの炭疽菌の発見は76年のことだが、「病原菌」という概念がそれ以来やっと成立するのである。それ以降はつぎつぎに新たな病原菌が発見されることになる。つまり、“多くの病気は微生物によって引き起こされる”という覚醒が人類に訪れたのは、このころなのだ。「微生物界」の存在が知られ、それが流行病の「原因」となる場合があるという認識は画期的なものであったが、「伝染病」という概念そのものは、原因が何であるかとは独立に、非常に古くからあった。
コレラが伝染病であるということは、その病原菌説が確認される以前から十分知られていたし、また多くの国ではこれが他国から侵入してくるものであることも、それがインドに発原することが確認される以前から、体験的に知っていた。そしてこのコレラ流行はきわめて広域的・世界的であることから、コレラ防疫には自国ばかりでなく、国際的な体制が必要であることも認識されていた。日本でも、文久年間にコレラが流行したさい、すでに洋書調所(蕃書取調所)の教授たちが熱心に検疫のことを力説していた。(立川昭二『病気の社会史』NHKブックス1971 p195)
日本の自主的な防疫・船舶隔離などは、不平等条約によって欧米(特にイギリス)に拒まれ、明治前半のコレラ流行をくい止め得なかったひとつの原因になっている(不平等条約撤廃がなるのが1899(明治32)年)。
一般に、
微生物についての認識が下水道問題に関しては不可欠である。そこには下水道問題の本質がどこにあるかを考える鍵がある。このことは、後に論じる。
配水管をS字に屈曲させて臭気トラップをかける発明があって、現在と同じような水洗便所がはじまったのは、18世紀末のロンドンである。しかし、水洗便所も当初は汲み取り式であった。汚水槽からテームズ川への直接の排水が認められたのが1815年のことであるという。だが、排水溝は開渠式であり、汚水や糞尿がテームズ川を汚染し、衛生状態の改善には結びつかなかった。
19世紀にはいると、水洗トイレ−下水道−テムズ河放出という「近代的」な汚物処理システムが急速に普及した。この点でもロンドンは他のヨーロッパ都市をリードしていた。上水道の普及が水洗トイレの普及を可能にしたのである。汚物処理の「物理的」な条件が急速に整備され、住居からの汚物の迅速な撤去が容易になった。(見市雅俊『コレラの世界史』晶文社1994 p146)
つまり、ヨーロッパの近代的下水道の始まりは、河川への直接の汚物・工場排水の放出のシステムであった。当然のことにテームズ川は汚染され、水道の取水口がテームズ川であったために、ロンドン市民は便所・工場の汚水を水道水として飲むことになる。『コレラの世界史』は、インドでの生活体験がある医師ジェイムス・ジョンソンの著作から次のようなところを引いている。
私たちは、隣人が用を足しているそばでヒンズー教徒が喉の渇きを癒すのをみて、彼らにはデリカシーというものが欠けている、と嘲笑う。では、ウエストミンスターのデリケートな市民のことを、一体どう表現すればよいのだろうか。彼らはテムズ河の水で水桶と胃をみたす。ところがそに水は十万の便所が・・・毎日そのぞっとするような不潔な中身を放出している地点で取水されたのである。(同前p148)
水洗トイレによって、水洗トイレをつけられるような裕福な家は、ということだが、たしかに清潔な「私的な空間」ができた。その代わりに河川が汚れ、多数の市民が汚れた水道水を飲むことになった。(
実際には、生水を飲まないでビールを飲む人が多かったという。したがって、コレラ患者は女・子供が多くなった。紅茶飲用の流行は1840年代からである。紅茶飲用が単なる嗜好の流行ではなく、19世紀の都市構造にかかわることであったことの認識は重要である。『コレラの世界史』第5章参照。)
テームズ川への汚物・汚水の放流は、家庭排水だけでなかったことは、言うまでもない。ガス会社の廃液のタレ流しもあった。先のエンゲルスの引用には、マンチェスターのことだが、鞣し工場・染色工場・骨粉製造所・ガス製造工場が挙げられていた。つまり、西欧の近代都市においては、工場の建設と工場労働者の移住とが同時に自然発生的に生じたのであり、工場からの排水と生活排水が混じり合って下水を流れ下り、河川に放流されることが避けられなかったのである。
(
日本では欧米を見本にして下水道を作ったがために、工場廃液を下水道が引き受けること「混合処理」を前提とした。下水道法第10、12条など。
そもそも「公共下水道」という名称そのものが、下水道は国家・地方行政が用意して建設し、下水道が出来たら全国民はそれを利用する(しなければならない)という原則を、物語っている。それは、勝手に汚水を河川に放出してはいけないということの裏面である。家庭への公共サービスとしての下水道という面と、企業が排出する工場排水の処理を公共下水道が引き受けることは、まるで質が違う。が、その常識が通用しないのである。この点、のちに再述する)
都市内部からの雨水排除のために自然にできていた小川や堀割・側溝を利用していた下水路が、水洗トイレや工場排水の排出路となり、その不潔さから暗渠式となり、土管やレンガの長大な下水管路となる。下水路き開渠式か暗渠式かということが、下水道の「近代性」をみるひとつの指標となる(もうひとつは、管渠終末で下水処理を行うかどうかである)。
ユーゴーも述べていたように、パリでは19世紀初頭から下水道は徐々に普及していったが、下水を直接セーヌ川へ流し捨てる点では、イギリスと同じことであり、コレラの大流行(1831)を防ぐことが出来なかった。
G. E. オスマンによる50年代からの大規模なパリ市街地の都市改造の一環として,水道本管とともに延長400kmに及ぶ下水道が建設された。パリの下水道は,汚水と雨水,それに道路上のごみも洗浄により排除する方式で,これは今日でも特徴となっている。また下水排除のほかに,上水道管,ガス管などの共同地下埋設を兼ねており,幹線では幅6m,高さ5mの大断面をしている。(松井三郎 平凡社百科事典「下水道」項目)
パリ市街の汚水・雨水を地下道に導くことで市内はたしかに清潔になるが、結局セーヌ川に放流するのであるから、セーヌ川を汚染することになる。セーヌ川は、河口の開くイギリス海峡を汚染することになる。
欧米各都市での下水道工事がはじまったのは、19世紀前半から半ばにかけてである。ハンブルグが1842年から、ミュンヘン・ベルリンが58年から、アメリカでは1801年にフィラデルフィアで下水道が最初に設置され、58年にニューヨークのブルックリン地区に、1年遅れてシカゴ市に建設され、60年までにはアメリカの主要な12都市で公共下水道が設置された(松井三郎 同前より)。いずれも、直接河川・湖沼・海へ汚水を放流するものであった。
ロンドンでもパリでも、下水の放流口をできるだけ下流へつけ替え、都市から離すことが行われた。しかし、放流規模が増大するにつれて、下流域の漁業や農業に悪影響が出てくる。そのために、下水道の末端で、何らかの
汚水処理を行ってきれいにした処理水を放流するということが行われるようになる。この汚水処理の問題は次節5.3「下水道の本質」で扱うことにする。
ヨーロッパの都市の汚ないところばかり取り上げたので、川添登のつぎのようなバランスのとれた評言を最後に示して、勘弁してもらう。
ヨーロッパの諸都市が、都市の浄化に対して本格的に取り組むようになるのは、ペストによる荒廃からようやく立ち直り始めてからのことと思うが、(中略)イタリアやドイツの都市では、清潔さのシンボルである噴水が、美しくつくられて、その町のシンボルともなっていたが、いまや多くの都市で水道や下水が作られ、道路は舗装されるようになり、都市改造も行われ、カールスルーエやマンハイムに代表されるような新しい都市計画による都市も建設された。そして少なくとも18世紀末には、シュトラスブルグ、フランクフルト、マンハイムなどは、清潔な都市になっていたようである。(『裏側から見た都市』p121)
ギリシャのアテネ、ヨーロッパ中世都市の多く、そして近世のパリ、ロンドン、マンチェスター、それにニューヨーク、シカゴなどは、まことに不潔な都市だった。しかし、それを欧米一般の都市へと普遍化してしまっては、真実を見誤るおそれがある。スペインやイタリアなど地中海の諸都市、ドイツのシュトラスブルク、フランクフルト、マンハイム、それにベルギーのブリュッセル、オランダのロッテルダムなどは、はやくから清潔な都市として知られていたことは、すでに紹介したとおりである。(同p152)
(5.2.b):日本の場合
「水の都・大阪」はある程度アッピールされ知られているが、江戸も幕府による計画的な埋立地や低湿地へ下町が発展していったため、水路・運河が発達していた。大阪や江戸などの大都市だけでなく、一般に江戸期の内陸水運の重要さは、あらためて全国的に認識される必要がある。内陸水運を維持するには、河川に常に十分の水が流れ、水深もあることが求められた。それは、湖沼・河川管理(つまり、内水面管理)だけでなく、周辺の山岳森林や水田・湿地に対する全体的な目配り/管理が必要であった。
江戸では掘割が発達しており、掘割下水網がくまなく張りめぐらされ上水との区別が厳しく守られていたことは、よく知られている。そして、既述のように屎尿は農地へ肥料として施される広汎なシステムが成立していたので、下水が受け持つのは生活雑排水と雨水であり、開渠式の掘割でそれほど問題がなかった。
江戸では17世紀半ばの正保・慶安のころ,〈下水ならびに表の溝〉〈表裏の下水〉などの管理について,頻繁に町触が出されている。また表通りに面した家は3尺おいた前に〈雨落ちの下水〉を掘り,ふたをして,往来のものが落ちないようにと命じている。このような表の溝,表裏の下水,雨落ちの下水は,江戸の町々が建設されるときにその設置が考えられたのであった。こうして下水は,雨落ちの下水→小下水→大下水と集められて,堀や川へ排水された。
江戸幕府は,こうした下水支配のために初め下水奉行を設置したが,1666年(寛文6)に廃止し,以後は下水の埋まった場合など,そのたびごとに奉行を任命することにしている。さらに後になると道奉行がこれを担当した。下水の管理は町々の負担であったが,近世中期以降になると関連する町々が下水組合をつくり,費用を負担した。(伊藤 好一 平凡社百科事典・同前)
つまり、江戸では当初の都市建造の段階はともかく、後には町々の一定の自治に任せる形で、下水の管理が行われていた。また、それが実際に有効に機能していた。もちろん、これは江戸に限られることではなく、江戸期の日本全体について一定の村・町の“自治”が行われていたことは、多数の証拠がある。(
ここでは、渡辺京二『逝きし世の面影』(葦書房1998)から、つぎの引用をしておく。
幕藩権力は年貢の徴収や、一揆の禁令や、キリシタンの禁圧といったいわば国政レベルの領域では、集権的な権力として強権を振るったのであるが、その代償といわんばかりに、民衆の日常生活の領域には、やむをえず発するそして実効の乏しい倹約令などを例外として、可能な限り立ち入ることを避けたのである。それは裏返せば民衆の共同団体に自治の領域が存在したということで、その自治は一種の慣習法的権利として、幕藩権力といえども叨に侵害することは許されぬ性質を保有していた。(p221)
この渡辺京二の労作は、江戸期から明治前半に来日した外国人の残した見聞記・旅行記などをもとに、近代以前の日本の“面影”を浮かび上がらせようとしたものである。「日本近代について長い物語を書きたいという途方もない願い」(本書「あとがき」)に突き動かされ、その壮図を実現すべく書かれた1冊目であることは本書『逝きし世の面影』が「日本近代素描T」と題されていることから分かる。今後が期待される重要な書物。)
明治維新以後、銀座通りの洋風改築などが実施されたが、道路脇溝渠が整えられただけで、下水道敷設という発想ではなかった。都市の下水の必要性が認識されたのは1877(明治10)年のコレラの大流行以後といわれる。オランダ人技師 J. デ・レーケの意見によって,1884〜86(明治17〜19)年東京神田鍛冶町などに分流式下水道(雨水と家庭汚水を分ける)を建設したのが日本の近代下水道の最初とされ、レンガや陶管で延長約4kmが敷設された。また同じころに横浜外国人居留地にもレンガ造りの下水道が敷設された。
上の神田鍛冶町の下水道4kmは、それだけで孤立しているもので、東京市の下水道網建設という展望をもって作られたわけではなかった。一種のアドバルーン的なものであった。「都市下水道計画」といってもかまわないものは、1889(明治22)年、W.バルトン、長与専斎(内務省衛生局長・医学)が東京市に提出した「東京市下水道設計第一報告書」が第一であろう。(
ただし、この計画書は着工されずに終わった。)
雨水を下水に入れるべきかどうかを検討している箇所。
汚水管に雨水を流入せしむるときは、汚水管を大にせざるべからず。之を大にするときは従って工費を増加するのみならず、降雨なくして雨水の管に流入せざるときは、水量甚だ少なくして流下の速力大いに減じ、汚水の流過を以て自然管の中を掃除すること能わざるの不便あり。・・・・・・雨水を汚水管に流入せしむるときは、汚水を希薄にし従って其の分量を増加するを以て沈殿法・濾過法・灌漑法を用ひ汚水を排除するに困難なるは勿論、汚水管を大にし、且つ喞筒[ポンプ]機械を用ふるに於てはその機械力を増さざるべからず。(『東京市下水道沿革誌』初版大正3年 東京都下水道局再発行1978 p81 原文は漢字カナ混じり文、濁点、句読点なし)
要するに、合流式にすると管渠やポンプ場が巨大化し、工費が増大する。下水処理の点でも不利である、と言っている(
「灌漑法」は畑のような広い地に下水を導き、滞留させて浄化する方法。フランスなどで行われていた)。百年後の官僚と土建屋と違って、バルトンらは工費を心配して、できるだけ内輪で済む工法を考えていて、分流法を提案しているのである。
分流式を採用するもうひとつの理由として、合流式は降雨のある時とない時とで下水管中を流れれる水量が非常に異なる。雨水のない少量の場合でも下水管をきれいにしておくために、管の断面を
卵形にする必要があるが、これの製作は難しく費用がかさむとしている。また「雨水を汚水管に注入せしむるの弊は多年欧米衛生学者認識するところとなり」とも言っている(p82)。
「衛生学者」がその弊害を認識しているのに欧米で分流式の採用が少ない理由に触れつつ、次のように述べている。
欧米諸都府に於いて、雨水を汚水管に流水せしむるは、実施止むを得ざるに出づるものありと雖も、本邦に於いては家屋の敷地街路と概ね同水平に在るを以て、雨水の多分を汚水管に流入せしめざること亦難からず(同前p82)。
欧米諸都市でなぜ分流式にしにくいのか理由が不明瞭であるが、日本の場合、雨水の多くが「街路」の溝渠に集められ排除されている従前通りの方式を使用できることを指摘しようとしている、と理解できる。つまり、
江戸以来の溝渠を従来通り雨水排除に用いれば、下水道は汚水専用にすることができる、というのがバルトン・長与案の「分流式」採用の根拠であったように読める。本当は、雨水排除用の管渠建設も含めて計画すべきであるのに。この点、次に扱う18年後の中島鋭治案のほうが論として徹底している。ただし、中島案は「合流式」を主張するが。
糞尿の排除について、バルトン・長与案がどのような見解であったかを見ておく。結論は、「糞尿は引き受けない」というのである。
糞尿は農家の肥料に供する必要品にして、東京市内の糞尿は近県に搬出し、其の値を計算するときは巨額に至るべし。・・・・・・今欧米諸都市の例に倣ひ、之を汚水管に流入して排除するの必要を見ず。(同p82)
屎尿の肥料としての価値をまったく疑っていない、と言っていいだろう。欧米のまねをして下水道で排除してしまうことを戒めている、とも言える。そのうえで、「水雪隠」(水洗トイレ)も将来は増加していくことを踏まえ「糞尿を汚水管に流入することを禁ぜず」としている。
糞尿の搬出法については、江戸期以来の「慣行に従」って行うが、さらに「改良を勉め」ればよい、としている。
糞尿を引き受けると下水管中の「不潔」が増す、という心配はないことをつぎのように断言している。糞尿の下水管排除に未経験な日本人への提案としての配慮である。
糞尿を汚水管に流入するも、此の設計を用ふるときは、衛生上決して障害を為すものにあらず。加之[しかのみならず]欧米の実例に徴するに管中汚水の不潔は、糞尿を混ずると否とに関せず同一なりとす。(同p82)
この、バルトン・長与案(総工費350万円)は、しかし、実施に移されることなくこのままタナザラシの憂き目にあってしまう。東京の長年の懸案であった「市区改正事業」(都市計画事業)が予算不足の中で行われていく際に「上水道優先」がとられ下水道は後回しになっていった。
明治当初から東京の上水の不衛生な状態についても気づかれており、江戸以来の木管による流水式(神田上水などから分流する)では汚水や雨水の流入が避けがたく、伝染病の感染源として改良が強く望まれていた。上記バルトンは、同時に上水道案もつくっており、上水道完成の後に下水道にかかるとして延期されたのである。
三多摩地方が神奈川県から東京府に編入されるのが1893(明治26)年のことであるが、これの最大の理由は、水源である多摩川の確保であった。東京市の近代的水道は1897(明治30)年を目標に工事が行われた。
3年の遅れで、明治32年12月10日、全市への給水を開始する。[都市計画上で]新参の水道が古株の道路を抜いて着手され、わずか3年の遅れで、一歩の後退もなく実施されたのはなぜであろうか。ひとえに伝染病対策を兼ねていた点に答は求められよう。明治19年の夏、東京はひどいコレラ禍に見舞われており、菌に汚された水をそのまま家庭に届けてしまうこれまでの流水式江戸水道は恐怖の的となり、何をおいても上水改良をうながさずにはおかなかった。(藤森照信『明治の東京計画』岩波同時代ライブラリー1990 p251)
ただし、誤解のないようにする必要があるが、コッホのコレラ菌発見が1883(明治16)年であり、未だこの段階では「これまでの流水式江戸水道は恐怖の的となり」といっても、現代の感覚とは同じではない(
病原菌を主張するコッホと衛生学権威のペッテンコーフェルの対決があったのが1892(明治25)年11月2日のことである。ペッテンコーフェルはコッホのコレラ菌培養液を飲みほして見せたが、発病しなかった)。伝染病という概念はもちろんあったのだが、いまだ当時は、汚水・悪臭などを排除する「衛生学的予防法」が主流の時代であった(第4.2節で紹介した「自働手洗器」の宣伝文の中に、「衛生法」とあった)。上水道を完備して衛生を重視するというコレラ予防法に対して、コッホのワクチンなどを用いる免疫的方法が主流となり「水道から注射へ」の転換が行われるのは、大正中期である(藤森前掲書p252)。
1907(明治40)年、土木畑の東大助教授中島鋭治が東京市の新しい下水道設計調査をまとめた(「東京市下水設計調査報告書」)。そこでは、バルトン・長与案と根本的に違う合流案が提案されていた。
下水工事の目的は、適当の水路に由りて、雨水及び汚水をして些かも途上に停滞せしむることなく、其の腐敗を始むるに先だち凡て之を市外に排除処分せんとするにあり(『東京市下水道沿革誌』p126 原文は漢字カナ混じり文、濁点、句読点なし)
中島案は、雨水排除に関して「合流法」(合流式)と「分離法」(分流式)があるとし、合流式を採用する理由を次のように述べている。
- 東京は降雨量が多く、雨水排除は汚水排除と同様に目下の急務である。
- 道路が狭く屈曲あり、「電車道を始め、水道瓦斯電話地下線」などがすでに縦横に走っている道路に、雨水用・汚水用の2本溝渠を埋設するのは困難である。
- 分流式にくらべ合流式は溝渠が1本で済み、工費が節減できる。
- 降雨のたびに、大量の雨水によって下水管が洗浄される。管が大径となるので、検査修繕が容易になる。
広い低湿地帯を抱える東京市(中島案では「下谷浅草或いは本所深川の4区」をあげている)では、雨水だけでなく「地下水の排除」が必要であり、それの必要性をうたった中島案の合流式提案は、工費節減もあって、説得力を持っていたと考えられる。
だが、下でも再度述べるように、この中島案を東京市が採用して以降、日本全国の都市で合流式が主流になっていくことになる。そして、都市が巨大化していけば行くほど、雨水の合流式排除が本質的に難しい問題を提起してくることになる。
中島案の糞尿排除への態度を見ておく。
糞尿を下水管によりて排除するは、欧米諸都市の慣例なりと雖も、本邦においては糞尿は農家唯一の肥料にして之を下水に排出するの習慣なし。然るに時勢の進運に伴ひ、漸く家屋の構造を改め水雪隠を設くるもの逐年増加の傾きありと雖も、本計画に於ては之を収容するも支障なし。(同p144)
ここの論理はダルトン・長与案とほとんど同じである。「糞尿は農家唯一の肥料」であるとしながらも、水洗トイレから下水道へ流される糞尿を引き受けてもかまわない。そうしても下水道としての働きに支障は出ない、と機能的にとらえるだけで、論をとどめている。
総事業費は3366万円で、これは明治40年度の東京市の総財政規模の2.5倍であった。これが実際に動きだすのは尾崎行雄市長の1911(明治44)年6月からで、このとき下水改良事務所が設置された。
バルトン・長与案がタナザラシにあって東京の下水道実施が先送りになっている間に、下水道法・汚物掃除法などが1900(明治33)年に成立している。このころに、日本の技術者による最初の近代的下水道が行われている。中島鋭治の計画で1899(明治32)年に着工した仙台市の合流式下水道である。
中島鋭治が合流式下水道を採用してからは,広島(1908年着工),大阪,名古屋,東京(いずれも1911年着工)の都市に続いて函館,岡山,明石,松山,会津若松,福島,大分の諸都市が合流式下水道を建設していった。以後,第2次世界大戦前の日本では合流式が主流となった。(松井三郎 同前百科事典)
仙台、広島などの下水道がどのようなものであったのか、興味があるが、わたしは今はそこに手を伸ばす余裕がない。これらの地方が幕末−明治前半の変動をどうくぐり抜けたのかに関係するのか、それとも無関係なのか。ここに挙がっている都市名、函館,岡山,明石,松山,会津若松,福島,大分から何が読みとれるのか、“下水道からみた日本近代地方史”というようなことを考えたくなる。資料をきちんと収集して全集刊行を構想するようなことをこそ、日本のお役所はやったらいい。下水道工事の巨大プロジェクトに比べればほんのはした金で済む。
日本で最初に作られた下水処理場は、三河島汚水処理場で、竣工は1922(大正11)年。「散水濾床法」が用いられた。だが、これはうまくいかなかったという。東京での処理場稼動の様子を見ていた名古屋や大阪では、すでに世界の主流となっていた「活性汚泥法」を用いての実用化が行われていった。
下水道史の資料(東京都下水道局編著など)や著作をいくづか読んでみたが、戦前の日本での下水処理にかんする研究は欧米の水準に遅れないように、熱心に行われていたといって良いと思う。下水道関係の現場にいる技術者や関連分野の大学研究者などは、健闘していたと言えるだろう。だが肝心な点は、戦前の日本では、下水道問題が都市計画の重要分野として位置づけられることはなく、“余裕があれば手当てする”という程度の扱いで終始してきた、ということだろう。
既述のように、江戸期には都市屎尿を郊外農村へ供給する循環システムが見事にできあがっていた。そのシステムは農村から都市へ作物を、都市から農村へ屎尿をという意味で
循環システムなのであった。だがその伝統的状況とは無関係に、明治・大正・昭和と小規模ながら近代的都市の下水道が建造され、屎尿を河川・海へ流出するシステムができていった。それと並行して
- 都市への人口集中によって、屎尿排出量の増大
- 近郊農地の宅地化
- 金肥(魚肥、大豆かす、過燐酸石灰、硫安)の普及
などによって、屎尿の需給バランスが崩れていく。それまで、近郊農家が屎尿汲み取りにやってきていたのが、来なくなって都市住民が困惑するのである。市民の窮状に突き動かされ、東京市が汲み取りに乗り出さざるを得なくなる。そして、1920(大正9)年から、市営の有料汲み取りが始まる。江戸期以前から続いてきていた「肥の汲み取り」をキーワードにした循環システムが崩れだした、画期の年である。
その前後を年表で表しておく。
1919(大正8)年 | 東京市は市営の無料汲み取り |
1920(大正9)年 | 東京市は市営の有料汲み取り |
1921(大正10)年 | 「水槽便所取締規則」で浄化槽式の便所 |
1922(大正11)年 | 東京市の下水道に水洗便所取り付け可となる |
1923(大正12)年 | 震災直前で、都心・下町に186kmの下水道 |
その間、都市的下水道は徐々に広がってはいた。特に、大正末から昭和初年にかけての不景気時代に「失業対策下水道工事」と呼ばれる事業が行われた。(
昭和2〜7年、事業費375万円で東京山の手地区に45.5kmの下水道を引いている。なお、不景気になると下水道工事というパターンは戦後も変わらずに、行われている。)だが、屎尿を運ぶ大八車や汚穢馬車・汚穢自動車の行列は、第2次大戦後までなくならなかった。(
バキュームカーは、川崎市の工藤庄八という清掃課長の苦心によって昭和27年に完成した。特に、圧に耐えさせるゴムホースの工夫、その長さ、など興味深い苦心談は、村野まさよし『バキュームカーはえらかった!』(文芸春秋1996)川崎市が清掃の先進都市であったことなど、この本で初めて知った。)
東京の下町の水辺で、かつてはいくらでも見かけた「汚穢船」の実態が、上の『バキュームカーはえらかった!』に出ていたので紹介しておく。昔、汚穢舟に乗っていた人の談話なのだが、こういう生き生きした記録はめったにない。役人は勿論、ブルーカラーもこの種のことは話したがらないから。
[野島崎灯台沖、何マイルというような]投棄の場所に行ってバルブを開けると、黄色い帯が何百メートルも船の後ろにつづくんですよ。走りながら排出するわけですからね。きれいとかなんとか思いませんでしたが、充実感がありましたね。・・・・・・コヤシのなかにいるウジ虫とか、回虫をえさにするんでしょうかね、かもめをはじめとしてものすごい数の鳥が、どこからともなく集まってきましたよ。何百、何千羽と集まってきました。(p148)
厚生省の資料(『日本の廃棄物』88,91,94,00)による、糞尿の海洋投棄の量。
西暦 年度 | 1963 | 70 | 75 | 80 | 85 | 91 | 95 | 97 |
m3/日 | 13,122 | 13,622 | 13,263 | 13,158 | 10,151 | 7,340 | 5,984 | 5,679 |
汲み取り屎尿中の% | 20.5 | 14.9 | 12.4 | 11.8 | 9.7 | 7.3 | 6.3 | 6.1 |
これは、バキュームカーなどによって汲み取ってくる糞尿についての統計である(つまり、最初から下水に流される水洗トイレの分は含まれていない)。1997(平成9)年度については、1日の汲み取り総量が9万2608 m
3であって、そのうちの6.1%が海洋投棄されているのである(日本全糞尿量の2.3%推計)。毎日の海洋投棄分5,649 m
3が、4tトラック 1400台ほどというのだから、なかなかすごい量だ。
人口でいうと97年度は、総人口1億2614万のうち水洗トイレ使用者が9953万(78.9%)、未使用者(汲み取り便所の人)2661万(21.1%)。(
上表の最新が97年になっているのは、『日本の廃棄物』の最新刊2000年所載がそうだからである。少なくとも91年版までは著者は厚生省をうたっていて、毎年発行だったようである。発行者は社団法人全国都市清掃会議。お役所系の発行だからどの公立図書館でも完備していそうなものだが、実際にはちがう。2000年版を東京都図書館横断検索でさがしても、39都区市町の図書館中わずか4館しかヒッとしない。2000年12月の日付のある2000年版の「まえがき」には
厚生省では「廃棄物処理事業実態調査」を毎年実施し、その結果を公表しておりますが、その解説版に当たる、いわば「廃棄物白書」ともいうべきものが、この「日本の廃棄物」です。
いうまでもなく、「日本の廃棄物」はわが国の廃棄物処理の実態を一覧することの出来る唯一の刊行物であり、その継続的な刊行は各方面から強く望まれているところです。
としている。にもかかわらず、92年以降は毎年発行ではなく、実際の流布状況もお寒い限りである。このように、わたしのような在野の者が厚生労働省のデータにアクセスするのは難しい。「廃棄物処理事業実態調査」を厚生労働省のサイトで検索しても、見当たらない。
建設省がにぎる下水道関係では、全国的「白書」はおそらく存在しないのではないか。
)
江戸崩壊から百年間のあいだ、欧米に範をとった都市下水道システムと伝統的な屎尿循環システムとが共存していた、と考えることができる。そして、中島鋭治以降の都市下水道システムが関心を持っていたのは“欧米のシステムをどのように日本に移入するか”であって、
並存していた伝統的な屎尿循環システムから学ぶという観点はほとんど見られない。
だが、伝統的な屎尿循環システムの方は伸縮自在なところがあって、第2次世界大戦の困難な時期には自家菜園にイモを作ったりする際には見よう見まねで肥汲みをしたりした。終戦後の食糧難時代に、化学肥料も供給されないころには屎尿がもてはやされたりした。
ついでに、ここに記しておくが、東京では第2次大戦の終わりごろには燃料も乗組員も不足して、海洋投棄の汚穢船を出すこともできなくなった。空襲の危険もあった。海洋投棄の禁止が1944年5月。都民が困惑した。東京都が西武電車・東武電車に依頼して、電車で都民の糞尿を郊外まで輸送し、線路脇の肥溜から農民が汲み取って畑へ施すという糞尿輸送策を作りだした。44年6月から始まり、西武が53年3月まで、東武が55年3月まで続いた。名古屋でも名鉄が同様のことを実施している。(ネット上では民鉄の黄金列車(糞尿の鉄道輸送)が詳しい。また、小林茂『日本屎尿問題源流考』に、東京都の場合の朝日新聞昭和55年12月20日号の特集からの引用があって、興味深い。)
戦後日本が下水道建設に本格的に乗り出すのは、経済の高度成長段階(1960年代)に至ってからである。やっとこの時期にいたって、工場排水・家庭排水の河川へのタレ流しによって全国的に河川の汚染が急激に進行し、下水道建設・廃水処理の必要性が急務であることが認識されるようになった。
第1次下水道整備5ヶ年計画がはじまるのが1963(昭和38)年である。この年を、重要な画期と考えたい。
明治維新から第1次下水道整備5ヶ年計画までと、それ以降の日本経済の高度成長段階とともに進展する日本の下水道の問題とは区別して考えた方がいい。この前期・後期の分割はわたしが仮に思いついた作業仮説である。すなわち
前期(明治維新〜第2次世界大戦後):
明治後半になって日本各地において、都市中心部だけでも雨水・糞尿排除という最低限の都市機能を作り出そうとして下水道建設が行われた。コレラ禍がきっかけとなった場合が多い。上水道がつねに優先され、先送りが常の、オマケの都市計画のようなものであった。
日本の近代化の歴史のうちにふくめて考えるべきである。
それに対して、
後期(高度成長期〜現在):
日本の土木官僚が「大きいことはいいことだ」という日本経済の肥大症に伴って下水道問題を意図的にねじ曲げたのと、公害問題や環境問題の進展が重なってきた時代である。
河川護岸工事・ダム建設・海岸の護岸工事や埋め立て、高速道路・新幹線の建設、都市の徹底舗装(くるま社会)などと連動している。
前期の近代化の段階では、下水道建設は都市建設における主たる問題であるとは考えられていなかった、あるいは、後回しにされてきた。後期の現代の問題としては、巨大土木工事の大波のなかで、官僚や土建屋の餌食になってしまったことが一番大きい。だが、宇井純・中西準子などの少数の学者の努力、日本各地に起こった住民運動、日本経済の失速などによって、官僚側もある程度の軌道修正を行ってきた。そういう、改善の面もあることは認めなければいけない。
だが、わたしが日本の近代−現代の下水道史を見てきてもっとも感じることは、
下水道はわれわれの排泄行為に直接つながる私的極点から始まる問題であるにもかかわらず、市民の主体性が完全に骨抜きにされ、「お上頼り」になってしまっているということだ。われわれの心的姿勢が「お上頼り」になってしまっている。裏返して言えば、下水道のことを完全なブラック・ボックスにして、「お上任せ」にしてしまっている。この重要な分野(人間生活の重要な分野)を、非主体的に生きることで失っているものがたくさんあるのだろうな、と思う。願わくは、わが
私的極点に発するこの分野に主体的な見通しをもって、のびのびと生きたいものだ。
しかし、ことは下水道だけの問題ではない、というべきだ。近代日本においては都市建設そのものが「外圧」にはじまり、あわただしく「普請中」(森鴎外の小説の題名、1910年)を続けるものであった。その中で、市民の私的生活に足をおいた主体的都市造りという観点から「近代日本の都市計画」を見直すことが必要だと思う。
「お上」と大企業と大学教授にばかり、都市計画を語らせないで。
近代日本の都市計画(地方都市計画、および都市計画史)を見渡すこと、その遠近法のなかで「近代日本の下水道問題」を扱うというのが、本筋だろうと思う。
ここまで、日本近代−現代の下水道史を簡単に見てきたが、
汚水排除を中心にしていた。以下、下水道のふたつ目の重要な機能である
雨水排水について、すこし触れておきたい。日本では降雨量がおおく、排水問題はきわめて重要な下水機能なのである。
東京の場合をメモしておく。東京(江戸)は利根川・荒川などの水系の下流域に発達した平野にできた都市であり、元来、河川には恵まれていた。そのことはまた、洪水も多かったことを意味しており、江戸時代以前から治水工事が行われていた。江戸時代には「利根川東遷、荒川西遷」といわれる、大工事が行われたことは有名である。もともと両川とも(現在の)東京湾に流れ込んでいたのを、利根川を東へ移して銚子へ持っていき、荒川はもとの入間川につけ替えた。これによって、洪水を防ぐだけでなく、水運の便を計った。
[東京]市内および近郊を流れる河川は荒川、中川および江戸川の3川をはじめとし、大小63あり、総延長8万7630メートルあって、交通上重要な位置をしめているばかりでなく、雨水はこの河川に自然に流れこみ放流されていた。目黒川、古川、神田川、汐留川などはみな市内を流れ主要な排水路になっていた。(『東京百年史』第3巻 p709)
中川も江戸川も利根川の旧河道。なお、隅田川は荒川の下流部を言い(江戸時代は大川と言っていた)、現荒川は1930(昭和5)年に完成した荒川放水路のこと。
『東京百年史』は明治20年代はじめ、東京の公道は延長960kmと見積もられ、道の左右に溝渠のない部分も多かったとしている。
大雨が降れば、公道が排水路に変わり、たちまち道は泥濘化することもあり、道路が舗装されなかったこともあって、東京の道路にぬかるみの多かったのもこの下水道が完備していなかったためであり、溝渠には汚水が停滞して蚊や蝿の発生源となり、衛生上からも放任できない問題であったのである。また道路が乾燥すると両側の溝渠の汚水を撒水に利用することもあって、臭気が鼻をつくような場合もあったのである。(同p709)
上でちょっと触れた荒川放水路は、1910(明治43)年8月の大洪水のために埼玉県から東京市下町一体が水没する被害が出て、放水路をまったく新たに掘削して作るという大工事を行ってできたものである。現在の岩淵水門(東京都北区)から隅田川が始まっているが、この大工事まではそれが本流であった。
岩淵水門から上流を見ている。赤い水門は旧岩淵水門(1924〜82年の間使用されていた)でその右手が現在の荒川本流。赤い水門から手前左方へ延びる水路が隅田川のはじまり。遠景に荒川水源の秩父方面の山が見えている。2003-1/28撮影。
荒川放水路の工事は、当時としては非常に思い切った巨大工事であったことを指摘しておきたい。買収面積1098町歩・移転戸数1300戸で、蒸気式の掘削機を導入している。仮の河道ができた段階で水を入れ、浚渫船で川底をさらに掘った。これは人力頼りだった土木工事に、わが国で最初に機械力を導入した画期的なものである。できた放水路は幅500mで約21kmであった。いま行ってみると分かるが、人造河川と思えない広い川原をとっていることに驚く。もちろん、洪水時の遊水地としてなのだが、現在はゴルフ場やグランドとして利用されている。
この工事の責任者・青山士[あきら]は内村鑑三門下で、パナマ運河建設にかかわったただ一人の日本人技師である。青山の知見と経験があってはじめてこの画期的大工事が可能だったのだろう。蒸気式の掘削機械の最初は、スエズ運河開削工事の後半(1860年代後半)だという。もちろんパナマ運河でも使われている。買収面積約11km
2は現在の小さめの区の面積に相当する。墨田区14km
2、台東区10km
2。
青山士は後に内務技監(内務省の技術官僚のトップ)、日本土木学会会長などに就いているが、その清廉高邁な人生態度は氏を知る人に感銘を与えるものであったようだ。荒川放水路の工事の途中の1921(大正10)年に機械学会に招かれた講演で、つぎのように述べている。
[荒川放水路の]工事費は都合2945万円要ることになります。2945万円というと大分大きな金のように思われますが、軍艦一艚備えれば3200万円掛かるのであります。軍艦たった一艚、それで荒川の水害を除くことができるのであります。荒川の水害というものは明治40年と43年位の洪水では、ずっと上から浸水区域を調べますと56万町歩浸水してしまうのです。(中略)荒川上下共で6300万円位掛かりますが、まあ軍艦2艚でそれが出来る訳であります。そうすると百姓がたすかるのみならず、洪水が出るといつも人も死にますが、そういうようなことを思いますと、私どもは終始泥まみれになって仕事をしておりますが、お互いにもう少しばかり不便を忍んで仕事をしていいと思って、毎日毎日泥を掘っております。(高崎哲郎『評伝 技師・青山士の生涯』講談社1994 p152)
青山士の『評伝』を読んで驚くことは、青山が大工事をなしとげてその記念碑・銘板に自分の名前をほとんど残さなかったことである。荒川放水路の場合は「多大ナル犠牲ト、労トヲ払ヒタル我等ノ仲間ヲ記憶セン為ニ」として、「荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」としている。(
青山士については、他に『写真集 青山士/後世への遺産』(山海堂1994)がある。)
荒川放水路の思い切った巨大工事を考えると、明治−大正期の政府・東京市の指導者たちの見識とスケールを改めて認識し直す。かれらは明治年間には東京に下水道工事をせず、それ以後も大正から昭和戦前期には予算をケチりながら、最低限の下水道建設しかしなかった。それは、第1に富国強兵の軍事優先国家として民生に予算を回さなかったこと、第2にそれを許す糞尿を肥料として利用する伝統があったこと、第3に高「密集」の都市が少なかったこと、などをその理由として上げることができよう。明治43年の大水害は(
千住方面の人は「43しじゅうさん年の大水」と言っていたらしい)、東京下町一帯は一面の泥水になり、その秋は船で通行することが続き、水が引いて地面が見えたのが12月だったという。つまり、下水道工事は先送りを続けていた政府・東京市の指導者たちも、「この規模の水害を回避できないと首都としての東京が存立できない」という決断をして実施した、必死の巨大工事であったのではないか。
(荒川に関する情報は、
荒川「歴史教室」がお勧めです。)
一般論としては、都市からの排水には次の2つの課題がある。
- 雨水の排除。これは溝渠によって河川へ導くという自然的システムに始まる。
- 地下水の排除。低湿地帯の排水や埋め立て地の排水など。
雨水の排除については、降雨がどれだけ地面にしみ込むか、舗装がどれだけしてあるか、によって、この問題の深刻さがまったく違ってくる。舗装率が上がると降雨のほとんどすべてが人工的な溝渠に集中するので、処理すべき水量が極端に大きくなる。
合流式の場合には日本のような雨水の多いところでは(特に、台風など集中豪雨がある)、降水量のピークを想定して巨大な管路・処理設備を作らざるをえない。日常的には眠っている設備を豪雨のためにあらかじめ用意しておくのである(家庭汚水の排出量を雨量に変換すると、平均 0.1o 程度で、きわめてわずかの雨量でしかないのだそうである)。しかし、百年に1度、2百年に1度の降水量ピークを想定しても、それにもかかわらずその処理能力をうわまわるような豪雨がありうる。地球温暖化・都市のヒートアイランド現象によって記録的な強さの豪雨が、局地的に降るようになってきている
したがって、都市内部からの雨水排除を単に
下水道だけの課題として引き受けようとすると、“下水道の巨大化”を発想していかざるをえず、しかも、その巨大化には限度がない。このことは、巨大土木工事が欲しくてしかたがない土木官僚−土建業界にとっては、願ってもないことである。
下水道の巨大化は、下水道が“金食い虫”となることを意味する。公共性を錦の御旗にする下水道であるから“税金食い虫”である。ところで、
下水道が“税金食い虫”であって、直接困る人は誰もいない。官僚は自分に巨大予算がついて嬉しい。事業を発注される土木関連企業は、潤う。住民は立派な下水道ができることで、満足。この構造があるために、下水道関係者は問題を「できるだけ下水道だけの問題として引き受けたがる」。本当は都市計画や国土計画全体の見直しを必要とする問題であるのであっても。
極端までいった下水道工事の“巨大主義”は「流域下水道」で現出した。地方公共団体を単位にして設置される「公共下水道」にたいして、複数の市町村にまたがって設置される下水道のことである。市街地の「密集」特性から離れて、長大な管渠を設置する必要が生じる。これにかんする問題点は、第5.3.c節
流域下水道で扱う。
いま東京で行われている下水道関係の巨大工事は、豪雨の際の浸水・氾濫防止として「地下遊水池」建設である。道路・環状7号線の地下に内径12.5mという4階建てビルほどの管状空間をつくり、7号線が横切る妙正寺川・善福寺川・神田川があふれそうになったら、地下「遊水池」へ導こうとする計画。鹿島のサイト神田川・環状七号線 地下調節池を見てください。これが、ある程度の氾濫防止になることは確かだろうが、万全でないこともあきらか。ヒートアイランド化した東京の夏で、かつてない激しい集中豪雨があるかもしれない。ゆえに、この工事がおわったら、その次は・・・・・・と“税金食い虫”は盛んに活動して、とどまることはない。
わたしの身近に起こった水害なので、生々しく記憶している1999年7月21日の「練馬新宿水害」では、100o以上の雨が1時間ほどの間に中野区北部から練馬区江古田地区の狭い範囲に降った。都市型水害の被災者になってという優れたレポートがある。「都市型水害」という名称も重要だと思う。従来型の水害は“川の方から水がくる”のであるが、都市型水害は、何と“風呂場の下水口から水が逆流してくる”のだ。
大雨の場合、処理しきれない下水は、処理せずに河川に放流するしかない(河川への出口を「雨水吐口」という)。合流式の場合には、下水中の糞便・油かす・工場廃液・ゴミなどが直接河川に放出されることになる。しかも、初期雨水は、屋根・道路などに堆積していた粉塵など汚染物質・砂泥をまき込んでくる(これは分流式でも同じ)。合流式の場合は、水量の少ない通常時に下水管で停留していた汚物堆積をも一気に押し流してくる。ゆえに初期雨水は、大量な/濃厚汚水が一気に流出する可能性がつよく、受け入れられない量(オーバーフロー分)は、都市河川へそのまま放流する(
それをしなければ/できなければ、ただちに浸水となる)。大雨の時に未処理下水を河川に放流する、これは合流式都市下水が
原理的に抱え込む困難な問題なのである。そして、ことに初期雨水は汚ない、というわけだ。
次は、国土交通省サイトの
「合流式下水道の改善」からの引用(強調は引用者)であるが、わずか2,3 mm の降雨でオーバーフローが生じるというのには、驚く。
- 汚水と雨水を同一の管きょで排除する合流式下水道は、早くから下水道を整備している大都市を中心に採用しています。昭和40年代後半以降、新規に着手する市町村では分流式下水道を採用しています。
- 雨天時には、約2〜3mm/hの降雨で合流式下水道から未処理下水が流出するため、公衆衛生上、水質保全上極めて問題です。未処理下水の吐口(雨水吐) は全国で約3,000箇所です。そのうち東京都では、約800箇所です。
- 合流式下水道の改善に必要な施設の構造及び放流水質を規定するなど、下水道法施行令を改正しました(平成16年4月1日施行)。
- 改善計画を策定し、原則として10年以内に対策を実施します。
平成14(2002)年度末現在で、合流式を使っているのは、都市数の約1割・処理区面積で約2割・処理人口で約2割であるという(
上記サイトにはもっと細かい数字や、初期雨水が河川に「糞便大腸菌」をどれくらい吐出しているか、などを示している。それを見ていると、雨の降り始めには都市河川には近づかない方がいい、と思えてくる)。
初期投資は合流式の方が安上がりとしても、雨量の多い日本の都市では分流式の方が適しており、先にバルトン・長与案(明治22年)の「雨水を汚水管に注入せしむるの弊は多年欧米衛生学者認識するところとなり」を抜き出しておいたように、理論的にも分流式がすぐれていることは、19世紀からの定説であった。上に見るように、日本の行政がこれを受け入れるのが「昭和40年代後半以降」(1970年以降)なのである。
都市の排水問題で、もうひとつ扱っておきたいのは
舗装のことである。土の表面を敷石・コンクリート・アスファルトなどの固い被覆層で覆ってしまうことだ。
道路が舗装される前は、雨ごとに道がぬかるみとなり、水溜まりができたものである。強雨となれば、洪水の可能性があった。洪水とまで言わなくても「雨が降ると子供の通学も出来なかった」(『明治文化史12 生活篇』p363)というような道路は珍しくなかった。したがって、道路に排水溝を設け、下水道に導くなどの「
浸水対策」が必要になった。
埋め立て地・低湿地帯に都市をつくる場合、地下水位を下げることが必要であることは、1907(明治40)年の中島鋭治の東京市下水道案にもあったことを既述した。
その後、トラックやバスが泥道をムリヤリに走るので、道路が荒れ、雨が降ると水たまりができひどい泥はねが普通のことだった(
トラック・バスが、戦前の日本では軍用のため特別保護をうけていた)。(わたしは終戦後まもなく小学校へ入学した世代だが、親から“歩き方”を厳しくいわれたものである、“ハネの上がらないように歩きなさい”と。下駄を履いてぬかるみ道を歩いて、ハネを上げないのは神業に等しかった。向こうからバス・トラック・乗用車などがやってくると、ハネを掛けられないように傘で避けたりした。)
日本の都市では条坊制の側溝以来の古い伝統があって、江戸でも排水溝が公的指示によって作られていたことは知られている。しかし、明治以前には馬車が使われることはなく、貴族たちが使用した牛車は都城を出ることはなかった。近畿圏の一部では江戸期には、牛車が米などの運搬に使用され、割石を敷いて補強した道路が設置されたという(
大津−京都−伏見の“牛車稼ぎ”)。
日本での荷馬車・乗合馬車の増加は明治10年代に入ってからで、道路の近代化(砕石道路・舗装道路、幅員の拡張、急カーブ・急坂などの是正、橋梁・トンネル)は遅れた。アスファルト舗装が大規模にはじまるのは関東大震災(1923)以後のことで、自動車交通の普及が本格化する第二次大戦後を待って、本格的な舗装道路建設がはじまる。
道路の舗装は、自動車を中心的な輸送手段とする社会(“
くるま社会”)と深くかかわっている。(
くるま社会は、石油多消費型社会の基幹構造のひとつである。遠距離・高速の「輸送」をキー・ワードとする社会である。それは自動車産業・石油業界にとって、なくてはならない社会環境である。道路建設で土建業界が潤うのはもちろんだが。
船舶・自動車・航空機による輸送は、かつてなかったような遠距離・高速な大量なものの移動を実現し、それによって、はじめて、大量生産・大量消費が可能となった。生産地と消費地が遠く離れていること、世界をまたいで各地から原料が生産地へ集まること。輸送が石油多消費型社会のキー・ワードであることは、強調しておく価値がある。)
道路の舗装がはじまると、都市では路地の隅、敷地のすべての地表を舗装してしまうところまで、極端に走るようになってしまった。“舗装しておけば雑草が生えない”、“自家用車を止められる”、“ぬかるみの心配がない”などという発想である。舗装化が徹底して、降った雨の大部分が下水道に流れ込むようになると(降雨のうち何%が下水道へ入って下水となるかを「
雨水混入率」という)、大量の雨水に対する特別な対策が必要になる。東京などのように徹底して舗装し家屋を建ててしまっている都市は、雨水混入率が100%近くなる。
雨水混入率を下げるために、
浸透舗装がはじめられているが一部にとどまっている。宅地内の雨水浸透設備については、建築基準法ではなにも規定していないのだそうである。東京では区のレベルで「指導・助成」を行っているが、強制力がなく、野放し状態であるらしい。わたしなどは、宅地内舗装はすべて浸透舗装を義務づけるようにすべきだと思っている。
水問題はその裾野が広く、小論では糞尿−下水道とかかわる限りで、瞥見しておくにとどめる。掘り割り・小川や河川という地表を流れているはずの水を、地下の管渠のなかへ導いて処理場まで流し、放流する。この「人工環境」が当たり前だと考えられている現状こそが問題である。小水流が路地の溝渠を洗っている環境を取りもどすことを真剣に考えたい。
例えば、次の引用は東京都水道局のサイトからであるが、誇らしげに書いているのが、なさけない。
神田川の柳橋周辺では9割以上が、また、隅田川の両国橋周辺では7割以上が下水の処理水です。下水道の普及によりリバーサイドは今や都民のいこいの場となっています。
両国橋の下を流れる隅田川の水の7割以上が、長い下水管を抜けてきていることを、「困った都市文明のあり方だ」と理解する必要がある。暗黒の下水管の中を抜けてくる隅田川7割の水は、われわれの都市生活の「汚れを排出する」という重要な・必然的な仕事を担っているのであるが、この人工的な水流は、自然生態系の深刻な犠牲の上に作られていることを忘れてはいけない。しかも、その水流が下水管で運んできた汚物処理の最終段階で、多量の石油を使った「燃焼処理」を行っているのが現状である(この点、後述)。
宇井純は『公害原論』のなかで、「現在の衛生工学の3悪技術」を数え上げて、
- 合流式(汚水と雨水を合流)
- 混合処理(工場排水を下水に入れる)
- 海洋投棄
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3つを指摘している(『合本 公害原論』亜紀書房1988 p243)。
石井勲らは「
合流式と単独浄化槽を作ってしまったことが、日本の下水処理史の2大汚点である」と言っている(石井勲・山田国廣『浄化槽革命』合同出版1994)。このように合流式にはさまざまな問題を含んでいる。(
石井勲らのこの本は、下水道問題が単なる環境問題ではなく日本官僚制との闘いを含んだ問題であることをはじめて教えてくれた、わたしにとっては貴重な本であった。中西準子を読み始めたのはその後である。)
だが、日本の下水道の問題はいうまでもなく、合流式だけに集約されるわけではない。「単独浄化槽」問題も重大であるし、「流域下水道」問題も深刻である。
上で、明治以後の下水道史の“後期=現代の問題”と言ったところを一口でいえば、日本官僚制の悪い面が強く出てきて、官僚と巨大土建屋・大企業と御用学者らは、不合理で非科学的な政策を推し進めた、ということになる。(
水俣病・イタイイタイ病で、日本の学者がいかに不正義であり/事実を歪曲するものであり/研究費をくれる官僚へ迎合するものかがわかった。われわれが知った「制度のなかの科学」というのはそういうものであった。)
だが、そういう日本官僚制や「制度のなかの科学」の問題の背後には、われわれ市民の非自律的態度があるのではないか。われわれは
自分の尻の問題も「お上任せ」にしてしまっている、というように。逆に言えば、わが
私的極点に立脚することで、みずらかの自律性=自立性へ進むことが、少しはできるのかもしれない。
(5.3):下水道の本質
(5.3.a):下水道の機能
下水道は都市に必然的である、というところから出発して、下水道の機能について、考えてみよう。
都市のあり方は非常に多様で、その適切な「定義」すら難しい。商業都市・工業都市・政治都市・港湾都市・・・など、都市の機能的特徴をさす名称をいくつか挙げてみれば、その多様さがよく分かる。ただ、小論では都市の完全な定義を必要としているわけではなく、その多様な特徴のうちのひとつ「
密集」に注目すればたりる。
人口の密集・企業体の密集・居住の密集・消費の密集・生産の密集・・・・。狭いところに多くが集まっている。密度高く、多様な特徴が集まる。
これら「密集」が意味するところは、
- 人工物(建物、道路など)の集積が起こること。人間の生活環境の多くが、人工物によって構成されるようになる。
- それによってさまざまの“脅威”から隔てられるということ。というより、意識的にそれを目的として「密集」が行われる。外敵の侵入などの防御のために城壁を築いた都市はよく知られている。そういう「人的脅威」だけでなく、「自然の脅威」もある。ここで自然の脅威というのは暑さ・寒さ・飢え・水害などのことである。
- 人工的環境のなかでの生活。住居はもちろん道路や景観までが人工的なものになっていく。現代都市ではそれが徹底した「技術環境」とでもいうべき温度・湿度・煤塵などのコントロールされた環境内での生活が、実際に行われている。それなしでは現代都市での生活がほとんど不可能になっている、といえるほどだ(「技術環境」という語は平凡百科事典の項目「文明」杉山光信による)。
- この「密集」から外へ排除すべきいくつかのものがあること。エネルギー的には「廃熱」であり、物質的には固体状「ゴミ」と液体状「下水」と気体状「排ガス」である。密集が甚だしくなるにつれて、これらの「排除のシステム」を都市の必然的な基本設備として設置せざるを得なくなる。
都市からの
「廃熱」がうまくいかないためにヒート・アイランド現象が起こったりすることはよく知られている。下水は汚れを水に溶かし込んで棄てるだけでなく、廃熱の点でも重要な機能を果たしている。だが、水の「気化熱」が大きいことを利用して効果的な廃熱の機能を果たさせることができるはずである。水冷式クーラーはともかく、地表の舗装をできるだけ減らして植物を植えること、ビルの屋上や壁面を植生で覆うことなど、植物の蒸散作用は水の気化熱による廃熱である。
雨水をできるだけ地中にしみ込ませ、地下水を豊富にし、地表からの水の蒸発を計って廃熱を計ることも重要である。地表からの水の蒸発のためにも舗装されていない地面が露出していることは重要である。要するに、都市に水循環を復活させるということである。(
無視できないのは、水道からの「漏水」である。東京都水道局のサイトによると、2001年の漏水率が6.4%である。これが、八木沢ダムの利水量を超えているという。つまり、水道から東京の地下にそれぐらいの水を浸透せしめているのであり、給水という観点からは漏水は無駄なのだが、地下の湿り気・地下水を考えると無意味とはいえないのである。下水道からの漏水や浸水の現象も、現場では重大問題らしい。)
固体状
「ゴミ」の問題は、いわゆる
廃棄物問題であって、それがいかに深刻な現代の問題であるかは、多言を要しない(必ずしも都市問題に限定されない)。ゴミ出しの分別・廃棄物のリサイクル・廃棄物の焼却・廃棄物の捨て場・・・・・・のどれひとつ簡単に解決のつきそうな問題はない。
小論の主題である糞尿は、元来が生物循環のレベルの問題であるのだから、
生物による物質循環にのせてやれば解決がつくはずだ、という正解が存在している(後述)。それに対して、廃棄物問題は、20世紀後半に至って俄然難しい問題となってしまった。それは、物質循環にのらない物質(プラスチックなど)が大量に廃棄されるという状況がもたらされたからである。これらは、結局
焼却処分するほかないのだが、焼却による炭酸ガスの発生による温暖化問題、ダイオキシンなどの有害物質の発生の問題などがあり、焼却処分という強引な方法が正しい解決法とはとうてい思えないのである。
わたしは、「廃棄物のリサイクル」という手法が本当に有効なのかどうかについて、かなり懐疑的である。リサイクルするために新たに費やす材料・エネルギーの収支がトータルで有効になっているのか。この方面について、関心を持っている。しかし、小論の範囲を超えるので、廃棄物問題には踏みこまないことにする。ただ、糞尿問題は廃棄物問題の一部分であるのは確かであり、一般化して扱った方が問題の急所が見えてくるような場合は、どんどん領域を越えていくつもりである。たとえば、下水処理の最終段階で焼却処理をするのが現在普通なのだが、それをどのように評価するか、というような問題の場合である。
わたしは、ここまでの考察で
都市にとって、下水道は必然的であると結論したい。
下水道は、基本的には「下水」を都市外部へ排出する水路である。はじめは天然の水路も利用されたであろうが、溝・掘り割りなど人工水路が作られ、開渠であったものが、悪臭・疫病などを防ぐために暗渠、管路となっていく。
都市は、都市民の「密集」して住む/働くところである。その都市民たちが、どんな目的のために「密集」していようとも、そこで生きているというだけで必然的につくりだす排棄物質・廃熱(炭酸ガス・糞尿・生活排水・ゴミ)がある。それを排除するシステムは、都市が都市として機能するための必然的なシステムである、と考えられる。
都市民が例外なく作りだす糞尿や生活雑排水の処置は、都市がその成り立ちからして備えているべき基本機能でなければならない。その意味で、下水道には
公共性がある。
その基本機能が果たされなくなると都市は崩壊する。それは「水不足」の形で都市を襲うであろう。「飲み水」が不足するはるか手前で下水道が機能しなくなって、都市の「密集」性が低下しはじめ、都市としての質が落ち、ゴーストタウン化しはじめる。
江戸のように屎尿を農民が有料で買い取っていくシステムがある場合には、屎尿処理を下水道に委ねる必要はなかった。その代わりに貯溜式便所と汲み取りという方式が必要であった。上水道が設備されるにしたがって水洗便所が普及しはじめ、それが下水道に接続される方式を一旦経験すると、貯溜式便所のうっとうしさに戻ることは不可能である。
その意味では、水洗便所は必然的だ、といえる。
だが、現在広まっている水洗便所(の形式)が必然的だとは、とうてい思えない。水洗を前提としても(湿式)改良の方向はあるだろう。非水洗(乾式)の方向も考える価値はあると思う(紙などによる清拭法)。こういう問題については第5.4節
携帯便器の将来性で論じるつもりでいる。
なお、明治時代の最初の水洗便所は「浸透式」であった。
[東京で]建物を建てそこで排出する汚水は宅地に汚水溜(下水溜)をつくり、道路に流出しないようにして自然浸透にまかせ、蚊と蝿の発生源になっていた。また大雨が降るとあふれて流出するといった状景が見られたのである。(『東京百年史』第3巻p710)
このあと、大正時代には「単独浄化槽」が使われるようになった。微生物による浄化を行うもので1921(大正10)年の警視庁令に規定があるという。この点、資料がなく詳細は分からない。しかし、このタイプの浄化槽が戦後まで使い続けられた。これに関する問題は、第(5.3.d)節
個人下水道で扱う。
もうひとつ下水道に期待される重要な機能は、
雨水が都市内部に滞留しないように、速やかに排除することである。これは、降水量の多い日本の都市などにとってはゆるがせにできない機能である。
だが考えてみると、本来は雨水は、「下水」として排除の対象になるべきものではないことは自明である。森林・原野や田畑にとっては、なくてはならないものだ。都市にとって雨水が排除対象となるのは、浸水・洪水を恐れてであって、都市住民の上水道は、原則的には水源地の降雨によってまかなわれている。つまり、雨水をはじめから下水として扱う現在の都市の下水道システムは、とても身勝手なやり方をしていることになる。だから、この機能については、考え直してみる価値がある。“雨水を下水としないシステム”が考えられるはずである。
そうであったとしても、都市における雨水排除の機能が重要であることには変わりがない。そして、それは「河川管理」の問題と関連して、水循環全体のなかで考えていくべきことであることは言うまでもない。河川管理といったが、それは水管理(水資源確保、浸水・洪水対策)だけの問題ではない。湖沼・河川を利用しているのは人間だけではなく、あらゆる生物が利用しているのである。あらゆる生物がその生を享受している環境の中で人間も生きていくというのが、人間の生存様式として望ましい。つまり、水循環は生態系全体の中で考えていくべきである、と考える。
(
水を“水資源”としか考えない発想から、ダム建設やコンクリートで固める護岸工事が安易に発想されている。“水系加工”とでも言いたいような、土木屋の力任せの巨大工事は、水を産業用水資源としか考えていない発想によってはじめて可能である。実際には、水はすべての生物が利用しているのであり、ある水系は無数の生物によって、利用されているのである。)
雨水を他の汚水・排水と同一の管路で排除する下水道の方式を
合流式という。雨水用の管路を設けて、汚水・排水とは別にあつかう方式を
分流式という。これらについては、前節(5.2.b)
「日本の下水道史」で述べたので、繰りかえさない。
下水道の機能の3番目として扱わなければならないのは、
工場排水の処理である。
たとえば、先に引用したエンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』のなかに、
・・・・ 橋の上手には丈の高い鞣し工場があり、さらに先には、染色工場や骨粉製造所、ガス製造工場があって、そこからの排水や排物はことごとくアーク川に運ばれる。アーク川はそのほかに、これに接続する下水溝や便所の中身も受け取る。
という描写があった。19世紀前半のマンチェスターで、自然水路への「工場排水」の放流の実態を示している。この状況を改善すべく、近代的下水道を設置するのであるから、「工場排水」が「下水」の仲間に入れられるのは必然性があった。このように、工場排水を一般の下水道に受け入れる方式を
混合処理という。
しかし、企業の活動に伴う工場排水と、都市民の私的生活に必然的に伴う家庭汚水とを同じ扱いで公共下水道が受け入れるのは、あきらかにおかしい。都市民が必然的に排出する汚物・汚水と、私企業の活動による排水。この二つはすくなくとも論理的には区別されて扱われるべきである。公共下水道は国・自治体が、税金によって公的に設置するものであるからである。(
ある企業がその生産活動によって工場排水を出すということがある。別の企業はまるで出さない。ある企業は有害物質を排出する、別の企業は処理しにくい有機物を大量に出す。つまり、企業の排水はさまざまである。もちろん、それらの企業活動は私的利益追求のために行われている。
それに対して、都市民の私的生活に必然的に伴う糞便・生活排水は、生存していれば排出される。それは任意でもないし排出せずにすませるというものでもない。
前者・工場排水は私的任意性がある。それにたいして、後者は普遍的であり、下水道の公共性の根拠そのものである。)
下水道は一度つくってしまうと、そう簡単につくり変えることができない。そのために、計画の段階でどれだけの企業が工場排水を出すかを見積もって設計することになる。しかし、企業の生産活動は「私的」な経済活動であって、予定通り生産が行われるかどうかは保証の限りではない。景気が悪くなって工場団地の誘致がダメになった、などという話はいくらでも聞く。下水道が工場排水を受け入れることを原則とすると、将来の生産活動のためにあらかじめ十分な処理能力のある下水道を作っておく、ということになる。しかも、税金によってである。ここにも下水道が巨大化しやすい動機があり、企業の生産活動への過度な保護がある。いうまでもなく、
企業は排水を工場内で処理し浄化して環境へ放流することを原則とすべきである。論理的にもそうだが、下水道技術的にもそうなのである。生まれたばかりの廃液をその発生現場で処理するのが、もっとも容易であるから。
さらに、より深刻な問題がある。工場排水は家庭汚水のように主として有機的汚物からできているのではなく、有害な無機物質を含んでいたり自然界には存在しない物質であったりする。しかも、排出される量が家庭汚水とくらべて比較にならないほど多量であることが普通だ(
家庭汚水と同程度の量と質の企業排水であるなら、公共下水道へ受け入れるのはかまわないだろう)。もちろん、現行法に有害物質等を工場排水として下水道へ流し出してはいけないという条文はあるが(例えば下水道法第12条の2)、それが実際に守られているかどうかの検査は難しい。
違反の現場を押さえないと実効性が乏しいが、違反は承知の上でやるのだから、深夜に放流したり雨の降りはじめにタレ流すなど、工場側も知恵を絞る。
いくつかの工場からの排水が混合され、家庭排水とも混合されて下水処理場に達することになるが、混合され薄まって大量となった下水を処理するのは、個々の工場で混合前の排水を処理するのにくらべて、比較にならないほど困難である。この点は、すぐ上でのべた「発生現場で処理する」を原則とすべきだということである。
このように、筋の通らない奇妙な制度である「混合処理」について、中西準子はつぎのような決定的な根拠をあげて批判している。
工場排水を下水道にとりこむ政策は、決して、無知や偶然からおこなわれているのではない。自治体や住民が企業の廃水処理の責任を肩代わりするという、はっきりとした方針のもとにおこなわれてきたのだ。「昭和42年、公害対策基本法制定をめぐって産業構造審議会が答申した中に、企業の公害対策負担を軽減するために下水道を整備されたいとの1項がある」(宇井純)ことがこれを端的に示している。(『下水道 ―― 水再生の哲学 ―― 』朝日新聞1983 p36 強調は引用者)
昭和42年は1967年で、
4大公害訴訟がはじまった年である(新潟水俣病67・四日市ぜんそく67・富山イタイイタイ病68・熊本水俣病69)。1970年のいわゆる「公害国会」(公害関連法案が17も成立した)を越えて、1971〜72年にかけて原告勝訴の判決がつぎつぎに出る。
こういう時代背景の中に「企業の公害対策負担を軽減するために下水道を整備されたい」という産業構造審議会の答申をおいて考えないといけない。「混合処理」という方式は、“下水道は本来どのようなものであるべきか”という下水道の本質にかかわる看過できない重大な問題をはらんでいる。下水道の公共性が、企業の「公害対策」をふくんでしまって「企業国家」の「公共」に貶められようとしていた。本当は、下水道の公共性は、都市民の私的極点に発する糞便の普遍性に根ざすものであるのに。
中西準子は、住民運動によって建設省が態度を変更したことをつぎのように指摘している。
建設省は当初、下水道法の建前から「すべての工場排水を下水道へ受け入れなければならない」という見解でしたが、1970年代の全国的な流域下水道反対運動のなかで、「現行下水道法のもとでも、工場排水を下水道で受け入れない下水道計画は可能」というように態度を変更しています。住民運動が強かったところでは、原則として工場は自己処理、下水道は生活排水と水質が生活排水に近い工場の排水だけを受け入れるというように、計画を変更しているところがたくさんあります。(中西準子『いのちの水』p51)
このようにして、1980年代以降、下水道行政も徐々に路線を修正してきている。ことにバブル崩壊後、財政難に苦しむ地方公共団体が“巨大工事”主義についてこない傾向がはっきりと出てきている。
日本の下水道を考える際に無視できないこととして、水道行政を扱う“役所の縄張り”の問題がある。
明治・大正時代を通じて、水道行政(上水・下水をともに含む)は内務省の管轄だった。昭和13年に内務省から厚生省が独立したが、水道行政はこの両省が「共管」(共同管轄)することになった。戦後、内務省はGHQによって解散させられたが、昭和22年に内務省の所管部分を建設省が引き継いだ。したがって、建設省・厚生省の「共管」となった。昭和31年には通産省所管の「工業用水法」が成立し、さらに混乱の種をふやした。昭和32年以降は、上水道は厚生省、下水道は建設省、ただし、終末処理場は厚生省、工業水道は通産省と、「水道行政の三分割」ということになった。
以上、下水道の役割を分析してきて、次のそれぞれ異なる由来と性質を持つ3種類に分類できることが分かった。下水の種類として、表示しておく。
┌─ 家庭汚水(台所・風呂場の雑排水、水洗便所からの糞尿)
│
│
下 水─┼─ 雨水(降雨、降雪、融雪)
│
│
└─ 事業場排水(工場、事業所、官庁、その他)
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(5.3.b):下水処理
都市内部の汚物・不用物を水流によって都市外部へ排除するのが、下水道の機能である。この場合、なぜ水を利用するのかについては第5.5節
未来をふくむ社会でちゃんと取り上げるつもりだが、一口で言えば、「地球の水循環の一部に乗って、それを利用している」ということにほかならない。水に汚れを溶かし込んで水流として(地球の重力を用いて)都市外部へ流し出すのだが、その水はやがて水循環によってふたたびきれいな水となって戻ってくる。
水循環を断ち切らずに保っていれば、使って汚した水が再び雨水となって戻ってくるので、循環していくらでも使える。事実上、無尽蔵に使える。このような物質循環のシステムを保っている流体は他にない。したがって、下水道が水を使うのには必然性がある。(地球物理的な必然性である。)
下水の放流量が少ない場合は、河川などが本来持っている自然浄化作用(微生物・植物の働き)によって、汚染は浄化されるが、放流量が一定の限度を超えると河川汚染が深刻化する。河川汚染が進むと、湖沼汚染や海の汚染につながる。
放流される物質が毒性を持っていたり河川の微生物の食物にならないものである場合には、そもそも自然浄化作用の対象にならない。近代工業が発展し、工場廃液を下水に流すようになると、後者の問題が深刻になる。
河川などの環境へできるだけ汚染を放流しないために、下水道の終端で何らかの処理、
下水処理をするようになる。
最初は、沈殿池を設けて砂泥などを沈殿させ、上澄み水を放流するという方式がとられた。これは、
物理的処理ということができる。
下水には糞尿や料理屑・残飯などが溶け混じり、汚水となって流れているのであるから、沈殿させただけでは“きれい”になったとはいえない。また、下水にははじめから薬品の水溶液が排出される工場廃液も混入することがある。汚水の臭いや色など水の中に溶解している物質や微細な浮遊物は、物理的処理によっては取り除くことはできない。それなら、どうすればよいのか。これが意外に難問であった。
19世紀末には、欧米の研究所でさまざまな方式による下水処理の研究が開始されていた。その研究はいずれも、
砂礫の間を通すと水の汚れが浄化されるという川や地下水でよく知られている事実を出発点としている、と考えることができる。
では、砂礫層によって、なぜ、水がきれいになるのか。これについて“濾過”(漉し取る)効果をしか考えないと、問題の本質に近づけない。濾過効果(吸着もふくめて)は基本的には物理的な効果である。
砂礫層に生息する微生物によって、汚れが食べられる
ことが本質的である。
例えば、小石の転がる浅瀬の川のシミュレーションである「散水濾(ろ)床法」は、砕石を積み重ねた濾床に汚水を撒くという方法である。使われるのはゴロゴロした砕石であり、濾過効果は期待できない。それでも汚水が浄化することは確かなのである。それは、砕石表面に微生物膜が発達し、汚水中の有機物を消化して分解するからである。この場合、微生物膜は空気と接触している状態であるから好気性細菌などが繁殖する。この散水濾床法の研究が開始されたのは、アメリカのマサチューセッツ州ローレンス研究所で、1891年のことであるという(藤井秀夫『江戸・東京の下水道のはなし』技報堂出版1995 p135)。
この濾床の石の表面についている細菌層をはがして、水中で空気を加えながら繁殖させる研究が行われ、「
活性汚泥法」として実を結ぶ。(
汚泥 sluge というのは、微生物の塊、またそれに水中浮遊物が付着していることもある、固形と液体の中間の状態のもの。泥状のもの。泥といっても土が入っているという意味ではない。汚水中の有機物が微生物に食べられて、微生物の体を構成する物質として固定されたものと考えることができる。それ以外は水と炭酸ガスになって分解されている。)活性汚泥法が最初に実用化されたのは、1914年イギリスである。アメリカでは1916年以降つぎつぎに大規模な処理場が建設された。
活性汚泥法は、水中の細菌やプランクトンを好気性環境(空気を吹き込んだり、プロペラで水面をかき回したり、水車を半分水中に沈めて回転させるなど)のもとで繁殖させ、汚水中の有機物を食べさせる。有機物を食べれば微生物は増殖する。つまり、汚水中の有機物が微生物の体に「同化」したのである。
この段階で活性汚泥法の運転を止めると、汚水はきれいになっているが微生物の量(つまり、汚泥量)が増えている。更に運転を続けて、微生物が自分の体内の栄養を消費しできるだけ“痩せた”状態を作り出す(「内生呼吸」という)。それを通り越すと微生物は死滅期に入り、汚泥が細分化されて濁りが出たりする。そこで、ちょうど良いタイミングで運転を止め、不用の微生物の体(汚泥)を取り出す(「ひき抜く」という)ことになる。
増殖による生体量の増加を「同化」と呼び、内生呼吸や死滅による減少を「異化」と呼んでいます。浮遊物質をほとんど含んでいない廃水の処理でも、内生呼吸がほぼ終わった時点では、フローラに供給したエサ(BOD量)の約60%が異化されますが、約40%は汚泥の形で残ります。(本多淳裕『環境バイオ学入門』技報堂出版2001 p89)
つまり、汚水中の溶解有機物の4割程度が汚泥として残るというのである。新しく汚水が入って来たら、この汚泥の一部は種[タネ]として加えてやるが、のこりは
余剰汚泥として引き抜き、次の処理(消化処理、脱水、焼却など)に進む。
このように活性汚泥法を実際に運転するには高度な技術と経験が必要で、空気を吹き込むために電力も使う。しかし、大量処理が可能で、現在全世界で用いられている下水処理の中心的な方法である。
小川や川原を流れる浅瀬などを典型とする好気性環境にたいして、澱んだ沼やドブの嫌気性環境がある。落葉や枯れ枝など、魚や動物の死体などが、沼底に沈む。すると、酸素があれば好気性細菌が活動するが、やがて、それらが酸素を使い果たして水底が嫌気的環境になると、嫌気的条件のもとで活動する細菌が活動をはじめる。残っていた有機物の分解は、嫌気性細菌にバトンタッチされる。その結果、水素や炭酸ガス、ギ酸、酢酸などとなる(水素生成細菌などという)。さらにそれら水素などを食べてメタンを合成するメタン生成細菌が活動しはじめる。いずれにせよ、有機物は完全に「消化」されて水と幾種類かの気体となる。
これが、澱んだ沼やどぶからブクリ、ブクリと“沼気”(瘴気)がわき上がってくる現象である。このガスはメタンが6割、炭酸ガスが3割、そのほかに少量の硫化水素、水蒸気などからなるとされる。
ここでは、小論に関係する限りで、メタン生成細菌について触れる。(後に、古細菌のところでもう一度出てくる。第5.5.b節
植物・細菌・古細菌)
メタン菌は有機物の末端分解者としての意義が大きい。一般に好気性微生物の分解作用の物質循環系における役割は巨大なものであるが、好気性菌の作用はかならず酸素の消失した区域を生ぜしめ、そこでは嫌気性菌の作用が重要になる。メタン菌は水素を消費することによってこの嫌気分解に参加している水素生成菌の活動を助けるとともに、みずからも有機物を炭素1個の化合物にまで徹底的に分解する役割を果たしている。(古賀洋介『古細菌』東大出版会 p135)
これらの嫌気性細菌の活動をシミュレートしたのが、下水処理場で「嫌気消化」とか「消化処理」と呼ばれている処理工程である。
通常は、好気性処理が終わったあとの余剰汚泥(スラッジ)の処理として行われる。有機物をメタンにするのだから、汚泥量が減り、同時に発生する硫化水素によって重金属イオンが不溶性塩となって沈殿する。嫌気消化中に病原菌・寄生虫卵などが死滅する。通気の必要がないので「活性汚泥法」などのように電力を使って曝気する必要がない。発生したメタンは燃料としてエネルギー源となる。このように嫌気消化はいいことづくめなのだが、嫌気消化の欠点は、処理に時間がかかることである。現状では通常は大きなタンクを用意し、半月〜1月の消化の時間が必要である。したがって、この処理法のすぐれた点は認められても、現在は“余裕があれば”行うという程度の補助的な位置づけとなっている。(
水団連のサイト下水汚泥と消化ガス(2001/12/5)によると、「下水汚泥処理における嫌気性消化法の採択は26.4%とあまり高くない」としている。)
下水の“よごれ”は、基本的に糞尿・台所ゴミなど人間の生物としての活動(食べること、排泄すること)にかかわる有機的排出物であって、それを処理するのに
食物連鎖の循環のなかの微生物に任せるという方法で処理されていることになる。微生物を使うのは、流体である下水に対する大量処理に適しているからであって、単に食物連鎖の中の生物に任せるということなら、豚便所の豚や養魚場の魚に糞尿・台所ゴミを食べさせるという方法でもよいのである。
ある人を自然人とした場合に(下水道などの人工的施設がなかったとした場合に)、その糞尿・食物カスなどが食物連鎖のルートに乗ってたどっていく分解の道筋を考える。その最後の行程(炭酸ガスと水などに分解されるところ)までたどれば、糞尿・食物カスなどは完全に分解され、微生物の体に取り込まれたり(同化)、無機物になったり(異化)している。その微生物もやがて死に、別の微生物にたべられる。そして、地球の物質循環に加わって、再び循環をはじめる。この食物連鎖の道筋の一部をとりあげて、人工化・工業化したのが下水処理である。したがって、この「自然モデル」とそっくり置き換えられるような下水処理であれば、それが理想的な下水処理なのである(前節5.3.aで、「正解」といったのはここのことである)。
自然の過程では、食物連鎖が物質循環の部分として働いて、全体が動的安定系を作っている。個々の物質は動いているのだが、その全体はひとつの生物−物質系として安定しているのである。したがって、ここで問題になるのは、その一部分に下水道が割り込んでも、物質循環が途切れずにきちんと行われているかどうか、ということである。農地でとれたものが循環してもとに戻っているか。山でとれたものが山に戻っているか。牧場でとれたものが牧場に戻っているか。海でとれたものが海に戻っているか。
人間が実際にもとに戻してやる必要はかならずしもないが、循環してもとに戻っているかという観点で下水道を見ることが重要だということになる。例えば水循環は、基本的には太陽エネルギーによって水蒸気が大気圏を上昇して雨雲となることで循環が起こるので、処理場から放流された後の水循環はそれほど心配する必要はない。むしろ、上下水道の入口から出口までの間の管路が、天然河川の水を奪っているのではないか、という問題がある。炭素循環と窒素循環については第5.5.b節
植物・細菌・古細菌で触れる。それらには、細菌が介入する循環が存在している。しかし、窒素は人工の窒素固定工場の作り出す窒素化合物にくらべて、硝化細菌・脱窒素細菌などの働きが遅く、循環が滞っている。リンも生物にとってきわめて重要な元素であるが、リン酸塩が海に出て堆積物となりリン鉱石となる地質学的速度と、人間が過リン酸石灰などの肥料を土中にまき、それが食物となって最終的に下水から放出される速度は比較にならないほど速い。特に、窒素やリンが湖沼など閉鎖水域で過剰になる富栄養化は避けがたい。
もうひとつ重要な観点は、もともとの自然の物質循環のなかに存在しなかったものを、人間が新たに加えていないか、ということである。生物が35億年の歴史のなかで作ってきた、食物連鎖を基本とする物質循環が、扱ってこなかった物質を人間が加えていないかという問題である。(
物質循環には生物活動がなくとも成立する地球物理的循環も存在する。まず、水循環である。さらに、マグマ流動やプレート運動、大気の動きや海流などがある。が、地球温暖化の問題は、人間活動が地球物理的水準にまで影響を与えているかどうか、ということだ)
食物連鎖の循環のなかの微生物の手におえない物質が、都市の下水道にはいりこめば、循環がうまく流れず、滞ってしまう。それは1つは工場排水であり(
これを「混合」処理ということについては、既述)、もう1つの懸念は都会の雨水である。これらを下水に合流せしめると、微生物の食物にはなりえない物質や微生物を殺してしまう有害物質やが混じる可能性がある(初期雨水の問題は、第5.2.b節
日本の場合で扱った)。
余剰汚泥の処分は、実はもっとも難しい問題を含んでいる。お役所の下水道パンフレットは大規模な下水処理場の写真を載せて終わっていることが多いが、処分の肝心なところは下水処理場では終わっていないのである。都市が廃棄した下水を
最終的にどこへ持って行くかということのなかに、下水道システムのあり方を問う究極の問題点が存在しているのである。
東京の場合、『下水道東京100年史』から抜き出してみると(p222〜223)、
- 戦前、東京湾に散布投棄していた。
- 戦時体制下、汚泥運搬船の運転が困難となり、汚泥を天日乾燥させて肥料化はじまる。
- 昭和30年代半ば、余剰汚泥が大量となり、肥料としての需要も落ちた。脱水汚泥の埋め立てが研究されるようになった。
- 焼却処分がはじまったのが、東京都では昭和42年小台処理場で。
大雑把にいうと、海洋投棄・肥料化・焼却処分などの方法がとられ、結局最終的には、大量処分が可能な石油多消費の焼却処分に頼ることになっていく。焼却処分は石油の多消費の問題以外に、炭酸ガスだけでなく重金属類・その他有害物質を大気中に放出しているという問題がある。残った灰は固めて敷石など低級建材として使うか、埋め立て地に埋設するなどの処分方法しかない。
物質循環が断ち切られてしまうところに、焼却処分の最も本質的な問題がある。
量が少なく、重金属など有害物質をふくまない場合は、海洋投棄・肥料化のいずれも合理性があり意味があった(「タレ流し」がいちがいに悪いとは言えないのである。すくなくとも“最悪”ではない)。ことに「肥料化」は、「屎尿を肥料として使用する」という日本社会の伝統的システムになじみやすいというだけでなく、この処分法は焼却処分とくらべて
循環型であるところが本質的に優れている。埋設処分するしかない不要物を作らない、という点が重要なのである。『下水道東京100年史』から該当個所を引用する。
汚泥の肥料化とは、生汚泥(沈殿池からひき抜いたばかりの未処理の汚泥)を沈殿濃縮したのち、汚泥乾燥床で天日乾燥し、これを粉砕して農家に売却するというものである。この方法はすでに一部で実施されていたが、(昭和)19年以降、三河島処理場内で本格的に開始される。
戦後になると、おりからの肥料不足を反映して、有機肥料として高い価値を持つ汚泥肥料の需要はいっそう増加することになる。このため21年には芝浦処理場で、さらに32年からは砂町処理場でも汚泥肥料の生産が開始された。(p222)
この「汚泥肥料」生産という意義のある処分法が立ち行かなくなった理由の第1は、1960(昭和35)年ごろの下水量の急激な増大である。
年 | 1950 | 1960 | 1965 |
処理水量 | 50万 | 104万 | 188万 |
(水量は、m3/日)
これによって、高度成長期(1960年代)以前には可能であった「天日乾燥」などという牧歌的方法が意味を持たなくなったことが、推測されよう。
第2は、処理場周辺の宅地化によって、汚泥乾燥床の増設ができなくなり、悪臭やハエの発生が問題化して、天日乾燥が難しくなってきたこと。
第3は下水へ有害物質が混入していることにより、汚泥肥料が肥料としての安全性に疑問がもたれるようになったこと。
天日乾燥に対して、人工乾燥が発想されるのには必然性がある。人工乾燥から焼却処分へは、あと一歩である。
「全国で発生する汚泥の76%程度(乾燥重量ベース)が焼却され」ているという(山形県の
汚泥処理施設に関する懇談会から)。汚泥の8割は焼却されている、ということだ。山形県の前記サイトによると、山形県では汚泥の46%を
コンポスト(堆肥 compost)化している、という。全国平均の数字が知りたいのだが、目下不明(少なくとも2割よりは少ない筈)。つまり、山形県は下水処理の方面では優等生ということになるようだ。このサイトの次のような指摘は、参考になる。
平成12年度に制定された循環型社会形成推進基本法では、廃棄物の排出抑制(リディュース)、資源の再使用(リユース)、再使用できなくなったものの再生使用(リサイクル)が求められている。また一方では、管理型産業廃棄物最終処分場の残容量が非常に逼迫している現状を考慮すれば、有効な資源になり得る下水汚泥をただ廃棄するだけでなく、コンポストの需要が頭打ちになっていること、家畜排泄物によるコンポストが新たに大量に市場に出てくることが予想されることなどから、コンポスト以外の新たな有効利用法を確立することが緊急の課題となっている。(強調は引用者)
「コンポストの需要が頭打ちになっている」ということが深刻である。しかし、なぜなのだろうか。日本の農業のあり方も気になってくる。
上引の中にあった「家畜排泄物によるコンポスト」というのは、同サイトの注を引いておく。次のような事情があるというのだ。
平成16年11月1日から、「家畜排泄物の管理の適正化及び利用の促進に関する法律」の適用により野積み・素掘り等の不適切な処理が出来なくなるため、堆肥化施設によるコンポスト化が進められている。(牛・馬10頭、豚100頭、鶏2000羽以上の大規模畜産農家が法律の対象)
われわれの糞便を下水に流して、それがコンポスト(
「堆肥」と言えばいいのに、下水処理などの過程から作られる場合は、この業界では「コンポスト」と言いたいらしいのだ)となって田畑へ戻ってくるのなら嬉しいが、重金属混入など「混合処理」の心配のないところでも、「需要の頭打ち」という最後の引導を渡されてしまうのだとすると、展望が開けない。
日本は多量の食糧を外国から輸入して、まかなっている(約5兆円程度で、1984年以来世界最大)。それを食べた(食べ残して棄てた)あとの糞尿・料理ゴミは、最終的に下水処理して、コンポストにして、原産地の田畑へ戻せばバランスがとれる。もちろん、実際にはそんなことはしておらず、リンや窒素がもとの田畑へもどらずに、日本の湖沼などに滞留していたずらに富栄養化湖沼が生まれている。日本の田畑が「コンポスト」を必要としないというのは、国際レベルのアンバランスの問題とも考えられる。日本の農家の実際は、違う理由によるのかも知れないが、大局的にはこういう問題なのではないか。
農作物の原産国で肥料・農薬・水を消費し、日本に輸入して、消費して下水処理して8割を焼却処分している。リン・窒素などの栄養素の一方的な移動(原産国から日本へ)が生じている。原産国の土壌は荒廃し、日本の湖沼・内湾・近海が富栄養化するのは避けられないのである。
ただ、余剰汚泥の処分法を考える上で、忘れてならないことは、「生汚泥」なるものが、きわめて扱いにくい代物だ、という点である。98%が水分である生きた微生物の塊であるから、とても腐りやすい。病原菌も含まれている。できるだけ早く水分を取り、扱いやすく衛生的にも安全・安定したものにする必要がある。機械的に脱水して水分75%ぐらいにして焼却炉に入れる。
焼却炉のなかで、余剰汚泥(といっても要するに微生物の死骸である)が燃える。炭酸ガスなど気体になるものと、灰となって燃え残るものとにわかれる。後者の中にはリンなどが含まれているのであるから、焼却灰から更にリンを取り出す研究などが為されている。
単なる有機物だけであるならまだしも、工場廃液も引き受けている「混合処理」では、重金属などが入っている。煙突から周辺大気へ放出される重金属などは有害であるから回収する。何という非能率。源の工場で回収する方が比較にならないほど能率的であることは明らか(発生源では濃度が濃いことと、いかなる物質が含まれているかよく分かっている)。
(5.3.c):流域下水道
下水道は、都市の特性のひとつである「密集」から必然的にはじまる。都市が拡大し市街地が急激に膨張するとき、下水道もその市街地と一体のものとして、ともに膨張していくことが求められる。下水道は下水管渠をはりめぐらせ下水の自然流下を計るのであるから、地形的な自然条件に規定されている。そのため市町村の区分けを越えて、複数の市町村が共同設置する下水道が合理的である場合がある。「流域下水道」について、もっとも好意的に理解すれば、このようになる。
『下水道東京100年史』に流域下水道の始まりを次のように説明している。
流域下水道は、大都市地域の水汚染を早期に解消し、人口急増地帯など市街地における下水道設備を有機的、一体的にすすめるために発足したもので、昭和40年に大阪府の寝屋川流域下水道が最初に整備された。それ以後大都市にかぎらず広域的な下水道整備手法として全国的に実施され、60年末現在で北海道から沖縄まで40都道府県85か所にのぼっている。(p676)
寝屋川流域下水道は、すくなくともその設置の趣旨は合理性があったと考えられる。問題は、その後である。
「それ以後大都市にかぎらず広域的な下水道整備手法として全国的に実施され」、市街地以外のところに、市町村の区分けを越えて、大規模な下水道を作ろうとしたのである。
ある流域に沿った地域全体をひとつの下水道領域とみなして巨大な下水道網で覆わんとする。ひとつの流域が持っている自然浄化作用を全面的に人工的な下水道に取り込んで、大規模に管渠網を作り、巨大な下水処理場で充分スケールメリットを生かして下水処理を行う、というのが流域下水道の“売り込み文句”である。
下水道法の「用語の定義」(第2条)には、つぎのように書いてある。
4.流域下水道
もつぱら地方公共団体が管理する下水道により排除される下水を受けて、これを排除し、及び処理するために地方公共団体が管理する下水道で、2以上の市町村の区域における下水を排除するものであり、かつ、終末処理場を有するものをいう。
「流域」という命名の理由が判らないので、これでは何度読んでも頭に入っていかない。法律というのは、得てしてそいうことが多い。現実の形式的なある側面を、一面的にとりあげて法律文章・字句としているからである。
この定義は、「複数の市町村にまたがって働く下水道であること」要するに、肝心なことはそれしか言っていない。A,B,C ・・・ の市町村があり、それぞれの下水道管を接続する太い幹線管渠を、これら市町村を貫いて造っておくわけだ。その幹線管渠の終末に充分大きな「終末処理場」を設置し、その処理場一ヶ所で、幹線管渠につながっている全部の市町村の下水処理を済ませてしまう。それぞれの市町村で同じような処理場を複数造るのにくらべて、ずっと、安上がりだというわけだ。
A,B,C ・・・ の市町村を貫いて延びていて、終末処理場にまで至る幹線管渠を想像してみて欲しい。A,B,C ・・・ のうちの高い方から低い方へ順に結んで連ねていくであろう。管渠の中で下水を自然流下させたいからである。すると一群の市町村A,B,C ・・・ は、高い方から低い方へある河川の流域に分散・分布しているような一群である場合が、合理的であり、この「流域下水道」なるものにふさわしいことになる。
幹線管渠を山越えさせて、異なる水系の市町村と接続させるのは、下水のポンプ・アップが必要になったりして、明らかに不合理である。したがって、条文は「2以上の市町村の区域」と言っているが、実際には
ひとつの水系のいくつかの(中小の)市町村をまとめてひとつの下水道系にし、末端処理を一ヶ所で済ませようという発想なのである。これで「流域」という命名の理由はわかったと思う。
下水道法に上引の流域下水道の規定が入ったのは、1970(昭和45)年のいわゆる“公害国会”においてである(
既述のように、公害関係の法令が17本も一挙に改正・成立した国会。「改正下水道法」もその一つだった)。流域下水道の設置・管理は原則として都道府県が行うとする、など流域下水道の法的位置づけがはじめて明らかになった。
このとき下水道法の目的に「公共用水域の水質の保全に資すること」が加えられた。この時期の日本は、1960年代からの高度成長期のさなか公害問題がピークに達しており、“公害国会”で一定の修正を計らざるを得なかったのである。(
東京の環境悪化の例として江戸時代からの伝統ある隅田川花火大会の中止がよく知られている。隅田川の汚染が深刻化することによって、1963〜77(昭和38〜52)年の15年間は、花火大会が中止になっている。“公害国会”を挟んで悪臭などかなり改善され、花火大会は再開されたのであるが、隅田川はコンクリート護岸で固められ両国周辺は首都高速道路や高層ビルの建築が行われており、水環境と景観をふくめた総合的な都市計画の視点がなかったことを痛感させられる。)
「下水道を作って、清浄な河川をとりもどそう」というようなキャッチ・フレーズが、下水道局のパンフレットには必ず出てくるようになった。このうたい文句で、実際には、「流域下水道」の巨大工事の計画がつぎつぎにぶちあげられた。(この点の批判は、すぐ下の「問題点」の【4】を見て欲しい。)
日本経済の高度成長期以前には、駅周辺の小規模な商店街とその周辺に点在する農家からなる集落であったところが、高度成長期を通じて分譲住宅などで急激に市街地化したようなそういう地区では、市町村を越えた下水道をいくつかの市町村が共同設置することに合理性があることがある、と思う(
下の「東京都の流域下水道について」を参照)。
しかし、その手法を、市街化地区以外の農山村に限度なく広げると、使用する住民にとっては、メリットよりも重大な損害が生じる。「密集」の条件がみたされないような地域で、統合的な下水道設備は、かえって不合理なのである。
その場合、この計画で利益を得るのは、巨大予算を手にできる中央官僚であり、巨大土木企業である。ようするに、税金を中央と地元の利権パイプが利益として分配していくものたちが笑うだけである。そうであるからこそ、「流域下水道」計画は、強力に推進され続けている。中西準子らの果敢な批判によって理論的な破綻は明らかであるのにもかかわらず、“下水道族”は健在である。
「流域下水道」が引き起こす問題点を、4点あげてみた。
-
- 【1】
実際のところ、この「流域下水道」の計画が、どういうところでつまずいているかというと、巨大予算・巨大工事というところが直接の原因となっていることだ。何十年計画であるために順調にいっても即効性がないこと・人口予測や経済発展予測などの予測が外れる可能性があること・市町村の財政を圧迫すること。高度成長時代に計画して将来予測を立てて着工しても、そののちの不況にぶつかって、頓挫してしまう。
-
- 【2】
下流末端につくられる巨大処理場は、その処理場周辺の住民にとっては、他の市町村の下水をわざわざ移送してきて自分のところで処理する、そのための設備である。だから、処理場建設に賛同しにくく、反対運動が起きやすい。自分らの出した糞尿・生活排水だけの処理ならまだ我慢できても、遠くの自治体のしまつを自分らのところに持ってきて付けるというのには我慢できない。
-
- 【3】
都市の特性である「密集」にはふさわしい下水道網も、住宅が点在する状態の農村集落では不合理な設備になってしまう。なぜなら、点在する住宅をカバーする下水道管渠の一軒あたりの負担が異常に増大するからである。
同じように、市町村の間を結ぶ幹線管渠は、延々と長大なものになってしまうので、下水処理場を設置しなくてすむことによる有利さをすぐに相殺してしまう。
-
- 【4】
流域下水道の効能として、河川の浄化が言われる。ひとつの水系から取水し上水として使用した水が、下水となって下水道を流下するが、その下水処理水であっても元の水系に戻さずに、できるだけ河口近くに処理場を作って、最後は海に放流するからである。この通りであれば、その水系の川はつねに清浄な水(一度も管渠をくぐっていない水)が流れている、というわけである。
清浄という観点からは望ましいことのように思えるが、実は深刻な問題がある。それは、川の水を使うたびに水量が引き算になり、場合によっては河道だけあって、水が流れない状態になる。雨が降ったときだけ流れる。そして、もとの川の水は幹線管渠という巨大下水道のなかを流れているのである。これは、人工環境の最たるものである。
この意味では流域下水道は、河川という自然的存在を否定するものである。水を「水資源」としか見ておらず、河川は水資源の移動路としか考えていない。この考え方に対しては、河川を自然界の水環境の重要な一部として認識し、その環境をめぐって生息する多数の生物(動植物から微生物にいたる全体)の存在を大切に考えるという立場が対置される。
以上の4点である。
当初「流域下水道」の考え方の中には一定のまっとうなものが含まれていた、と思う。だが、日本経済が高度成長期からバブル期へかかる時期に実際に露出したのは、グロテスクな“巨大事業信仰”とでもいうべきものであった。
流域下水道が「下水道整備5ヶ年計画」で独立した項目として取り上げられるのは「第2次下水道整備5ヶ年計画」(1967〜71)である。総事業費9300億円。法的に位置づけが明確化したのが、前述のように改正下水道法で、1970年の“公害国会”でのことだった。「第3次下水道整備5ヶ年計画」(1972〜76)では、総事業費がなんと2兆6000億円になっている。この時期、巨大土木事業に惜しみなく税金が注ぎ込まれたことがよくわかる。この「第3次下水道整備5ヶ年計画」の『下水道東京100年史』での説明を引用しておこう。流域下水道の事業に使われた税金の麻薬的巨額さを味わうべきだ。
なかでも環境基準を達成するための事業、とくに流域下水道事業は強力な推進が図られることとなる。このため流域下水道事業の事業費は、第2次5ヶ年計画の6倍増にあたる3600億円に、総事業費にしめる割合も6.5%から14%にはねあがった(p239)
「全総」(第1次全国総合開発計画)が「新全総」(同第2次)に更新されたのが1969年5月の閣議である。「開発可能性の全国への拡大と大規模プロジェクト」が“売り”だった(
全総は経済企画庁/国土庁が策定している。現在は1998年決定の第5次全総で「21世紀の国土のグランド・デザイン」)。
1970年代の流域下水道建設がもっとも派手に打ち出されたころ、全国に流域下水道反対運動も広がっていった。その運動の理論的支柱であった中西準子のこの時期の著作『都市の再生と下水道』(日本評論社1979)から、流域下水道は住民の生活改善のためという美名にかくれた工場誘致の基盤整備にすぎない、と主張している部分を引用しておく。
東京・大阪・名古屋などの従来の公共下水道も工場排水を含んでいたが、その割合は1〜2割であるのに、流域下水道は少なくて2割、多いところは7割4分(境川・矢作川夕域下水道衣浦東部処理区――まだ計画決定されていない)にもなっている。・・・・公共下水道が、市街地整備の結果、住宅地に混在していた中小企業の排水が入り、やがて大企業も入ってきてしまうという経過をたどっているのに対し、流域下水道はむしろ今後の工場誘致のために整備されようとしている。(p85)
不況で、造成した工業団地はどこもガラ空きという時、廃水処理を自治体が引き受けることが工業誘致の重要な条件になっている。流域下水道が計画されている現地をじっくり歩いてみると、人家はまばらで、工場さえこなければ、ここに巨大な下水道が必要なはずはないというようなところがたくさんある。
下水道はいまや生活関連施設と看板をかかげつつ、内容は産業基盤施設へと変わっているのである。現在の下水道政策の最もきわ立った特徴はここにある。(p86)
全国の反対運動や中西準子らの努力と、不況期にはいった日本経済の状況によって、「流域下水道」建設について行政側の一定の柔軟化、見直しがある。(たとえば、1983年に建設省は、都道府県に対して「
変更する必要が生じたときには、遅滞なく、流域下水道整備総合計画を変更するものとする」という通達をだしている。)だが、全国のおおくの流域下水道計画は推進され、実現しつつあることも事実である。実施状況のデータは国土交通省サイトの
流域下水道の実施状況 を参照して欲しい。
● 東京都の流域下水道について ●
わたしの土地勘のある東京都の流域下水道に関して、メモを残しておく。
東京都の区部は現在下水道普及率がほとんど100%になっている。下水道整備が立ち後れていた多摩地区に対して、1970年代に入って流域下水道の設置を促進しはじめた。
この地区は急速に市街化が進行していき、下水道の要求が高かった。多摩ニュータウンのような巨大団地の建設も行われて、それにあわせた下水道整備も行われた。多摩ニュータウンの入居開始が1971年3月で、南多摩処理場が運転を開始した。
『下水道東京100年史』が次のように自己評価しているのは、ある意味で正当である。
ただ幸いにして、多摩地域では流域下水道に対しさほどつよい反対運動はおこらなかった。逆にいえば、下水道未整備による弊害が、それだけ大きかったということであった。(p241)
東京郊外が区部〜多摩地区の区別なく、
全面的に一様に市街地化している。そのような巨大市街地化が望ましいことかどうかの議論を別にすれば、この地域の市町村の区域分けによらずに流域下水道の網目で一気に覆ってしまうというのには、合理性がある、と思う。上で「ある意味で正当である」と言ったのは、この意味である。むしろ、多摩川上流域などにおける流域下水道が妥当かどうかに関しては、下流市街地とは別個に評価すべきだと思う。
多摩地域は、多摩川流域と荒川右岸域に分けられる。荒川左岸域は埼玉県になる。多摩川流域は左岸(北側)と右岸(南側)に分けられる。八王子市・立川市・三鷹市はそれぞれ独立の公共下水道を持っている。
東京都下水道局サイトより(一部改変)
- 多摩地区左岸
- 多摩川上流処理区
- 北多摩1号処理区
- 北多摩2号処理区
- 野川処理区
- (立川市単独の公共下水道)
- 多摩川右岸
- 秋川処理区
- 浅川処理区
- 南多摩処理区
- (八王子単独の公共下水道)
- 荒川右岸
- 荒川右岸処理区
- 区部との境界域
- (三鷹市単独の公共下水道)
- 武蔵野市の一部
わたしが30年ちかく住んでいた東村山市は荒川右岸域に入る。この地域は、空堀川・柳瀬川・黒目川・石神井川の流域であり、これらの中小河川が荒川(隅田川)に流入することを意味している。この地域は比較的平坦で急激な市街地化が進行しており、この地域内にある10市がそれぞれ処理場を個別につくる余裕がなかった。そのために、「流域下水道」方式によって下水道を実現するというのには、合理性があった。
下水は清瀬処理場に集められ処理され、そこで荒川に放流される。したがって、清瀬市の説得・埼玉県との調整に手間取ったようである。都市計画決定は1972年12月。
(5.3.d):個人下水道
「流域下水道」が巨大なものになりがちであり、しかも、スケールメリットがいつも成立するとは限らないことを前節でのべた。つまり、その地区で住居が密集しているのか、まばらに分散しているのかによって下水道のあり方も変わるべきだ、という考え方が必要であることがわかる。住宅密度と経済的に最適な下水道のあり方、という問題である。
下水道網で覆って下水を下水処理場に集める、という方式は、住居密度の高いところに適している。住居が離ればなれに点在しているようなところでは、管渠をなくして個々の住居において下水を処理してしまう
個人下水道がふさわしい。おそらく、その中間的な形態、農村集落などで集落単位に共同の処理場を設けるのが適当な場合もあり得るだろう。中西準子はこれを
集落下水道と呼んでいる。そして、人口密度(住居の密度)のちがいによって、最適の下水道の形態もそれぞれちがうことをしめしている。この考え方は、長野県駒ヶ根市の下水道計画の「環境アセスメント」を依頼されたときに、はじめて中西らによって提案されたもので、その経緯は『下水道:水再生の哲学』(朝日新聞1983)に詳述してある。そのレポートは駒ケ根市の市民を巻き込んだ「環境調査」など、とても興味深いものである。
人口密度の高い市の中心部は公共下水道、やや離れたところにかたまって存在する集落には集落下水道、人口密度が低い地区には個人下水道というように、使い分けるべきことを主張した。集落下水道は、100戸とか200戸とかの集落の下水を1か所に集めて処理するシステムである。(『水の環境戦略』岩波新書1994 p69 上図も)
中西らは、個人下水道に適しているのは1ヘクタール(ha 100m四方)あたり40人以下の人口密度の場合としている(前掲書で、日本の人口の3〜4割が該当するとしている)。上図のB地区とC地区の境目の人口密度の目安である。
80年代のはじめに中西準子らが駒ケ根市の環境アセスメントに取り組む中で提案した、人口密度によって3種の下水道を使い分ける方式は、その合理性・経済性が明瞭である。はじめ否定していた建設省自身が「下水道マップ」という形で認めざるを得なかった。
下水道関係者の多くは、私の駒ケ根市の計画を見たとき、「非常識」の一言でかたづけました。しかし、3年後、その建設省自身が、下水道マップを作ると発表せざるを得ませんでした。そしてて、下水道マップ作成マニュアルを1986年に出しました。下水道マップとは、私が駒ケ根でやったこと、つまり区域ごとに公共下水道か集落下水道か個人下水道かの区分をした地図のことです。(『いのちの水』読売新聞社1990 p59)
個人下水道は中西準子の造語であって、行政用語では
合併浄化槽という。ようするに、各家ごとに合併浄化槽という装置をつけ、家庭からの下水を処理して浄化された水を側溝や小川などに放流するということである。
合併浄化槽の「合併」とは、家庭下水のうち糞尿と雑排水(台所、洗濯、風呂)の両方を合わせて処理するという意味である。歴史的には
単独浄化槽というものが存在したので、それと区別するために合併浄化槽と称しているのである。
1960年代から70年代にかけて、とりあえず“トイレを水洗にしたい”という要求は強く、下水道の未設置地域に単独浄化槽が普及した。単独浄化槽は家庭下水のうち
屎尿処理のみを行う装置である。それ以外の雑排水は処理せずに流してしまうことになる。そのために、台所や風呂の油脂・洗剤などが河川・湖沼に直接入り、日本全国で汚染が進んだ。
水質汚濁防止法(1971年施行)等により、工場、事業場からの産業排水の規制が進み、わが国の水への汚濁原因の第一のものが、一般の家庭から排出される生活排水といわれるようになった。その元凶は、まず総人口の4分の1に相当する下水未処理地区からの排水であるというわけだ。むろん、産業排水も水質汚濁の主要原因のひとつであることは変わりがない。
次の表は、1999年の「閉鎖性水域の汚れの原因」(環境庁調査)である。
| 東京湾 | 伊勢湾 | 瀬戸内海 |
生活排水 | 67.6 | 53.4 | 47.5 |
産業排水 | 21.1 | 34.4 | 42.6 |
その他 | 11.3 | 12.2 | 10.0 |
数字は、各水域ごとの%
ここでついでに、2002年度の下水道普及状況を、利用者人口別に表したデータを示しておく(環境庁発表)。
下水道 | 農業集落排水施設 | 合併浄化槽 | コミプラ | 以上計 | 未処理人口 | 総人口 |
8,257 | 311 | 993 | 38 | 9,599 | 3,070 | 12,669 |
65.2% | 2.5% | 7.8% | 0.3% | 75.8% | 24.2% | 100 |
上段の数字は人口で、単位は万人、「コミプラ」はコミュニティ・プラント
「未処理人口」というのは、下水道・農業集落配水施設・合併浄化槽・コミュニティプラントなどのいずれの施設にもつながっていない場合を示している。その家庭へは、糞尿についてはバキューム・カーなどで汲み取りに行っているのだろうが、雑排水はいずれにせよ環境へタレ流ししていることになる。その多さに驚く。総人口の約4分の1もある。(
環境庁のデータは1999(平成11)年度から単独浄化槽はすでに浄化槽あつかいしておらず、データの表面から消えている。2001年からは単独浄化槽の新設は事実上禁止された。つまり、単独浄化槽しか設置していない家庭は「未処理人口」に含まれているということである。2000年のデータでは、単独浄化槽が2537万人、合併浄化槽が914万人となっている。とすると、未処理人口の8割は単独浄化槽使用者であることが、推測される。)
単独浄化槽の規定は1921(大正10)年の警視庁令にさかのぼるのだという。衛生関係者の間では、この単独浄化槽は浄化機能が低く否定されていた。戦後当初GHQの指導もあって、合併浄化槽に切り替える準備をしていたという。1949(昭和24)年建築基準法を制定するとき、建設省は警視庁令の単独浄化槽をそのまま構造基準として入れてしまった。それ以来、建設省と厚生省の縄張りあらそいもあって、合併浄化槽が長い間認められなかった。(ここは中西準子『いのちの水』p62辺りを参考にしています)
しかし、単独浄化槽の処理能力の悪さと家庭雑排水のタレ流しとによって、河川汚濁の元凶のひとつとされるようになっていった。そのため、1983年に議員立法により浄化槽法が成立、85年から実施された。87年から合併浄化槽の設置に補助金を出すことになった。
中西準子は、単独浄化槽しか認めなかった建設省が合併浄化槽を認め、さらに、補助金まで出すようになった経緯を、つぎのように振り返っている。
単独下水道は、日本独自のものです。こういう中途半端なものを設置するのを認めただけでなく、小規模の合併浄化槽をつけることを長きにわたって認めませんでした。(中西準子『いのちの水』p62)
家庭用の合併浄化槽の第1号が建設大臣の認定を受けたのは、1985年4月、駒ケ根市に関する私の提案が出されて3年後でした。東京都は翌年の1986年3月に水源地域で、合併浄化槽を設置する家庭について、単独浄化槽との差額を都が補助し、合併浄化槽の設置を奨励することにしました。
つづいて、翌年の1987年に厚生省は、市町村が下水道事業認可区域外で、合併浄化槽に補助金を出す場合、その3分の1を国が負担することに決めました。・・・・ これは日本の下水道の歴史で画期的なことでした。(同前 p60)
単独浄化槽の禁止を要求する声は早くからあがっていたが、実際に浄化槽法の改正で単独浄化槽の新設が禁止されたのが2001年。しかし、合併浄化槽への切り替えは「努力義務」とされたために、既設の単独浄化槽のために家庭雑排水のタレ流しが依然として続いているのが実情である。(
上で述べたように、未処理人口の8割程度が単独浄化槽使用者であることが推測されるが(国民の2割弱に相当)、下水道行政が早く手を打って、合併浄化槽に切り替えていればその大半は防げた数字である。流域下水道などの巨大土木事業にうつつをぬかさずに。
)
厚生労働省サイトに現在ある最新の「厚生白書」(平成12年2000)には、次のように述べられていて、依然として「単独浄化槽」が新設されつつあることがわかる。
新たに設置された浄化槽全体に占める合併処理浄化槽の割合は、全国平均で1989(平成元)年度の10.0%から1999(平成11)年度第3四半期の70.9%へと着実に上昇しているものの、依然として地域格差は大きい。
この白書もそうだし『日本の廃棄物』もそうなのだが、「新設」される浄化槽については合併浄化槽の割合が多い、ということを強調したがっている。だが既述のように、建設省を中心に日本の官僚は長年
単独浄化槽の設置を押し進めてきたのであって、そのために累積して実際使われている浄化槽の数は、単独浄化槽が圧倒的に多いのである(下表、最下段)。官僚の作成する白書類には、自分らの「先見の明のなさ」を反省する言葉などどこを探しても、カケラもない。
1997年について、合併浄化槽と単独浄化槽の比較
| 合併浄化槽 | 単独浄化槽 | 注 |
使用人口数(万人) | 957 | 2515 | 総人口12614 |
対総人口比(%) | 7.6 | 19.9 | 計27.5 |
対合計人口比(%) | 27.6 | 72.4 | 計100 |
使用人口/設置数 | 9.5 | 3.4 | |
設置数(万基) | 101 | 736 | |
対合計設置数比(%) | 12.1 | 87.9 | 計100 |
なお、この表で、設置数比で約9割を占める単独浄化槽が、使用人口比で約7割に落ちているのは、単独浄化槽が所帯ごとに設置されることが多い(1基あたりの使用者数平均3.4人)に対して、合併浄化槽はマンションのような共同住宅にも設置され大型設備もあること(1基辺り使用者数平均9.5)を反映している。
全浄協(全国合併処理浄化槽普及促進市町村協議会)のサイトから合併浄化槽の構造図・概念図を拝借した。(これは、ひとつの例です。実寸法がこれでは不明ですが、最小の5人用のコンパクトなもので、1×2×1.8mくらい。90万円程度。)
「単独」にせよ「合併」にせよ、浄化槽内に微生物を繁殖させ、屎尿など汚濁物質を微生物に食べさせて、きれいになった処理水を放流するというもので、その原理は公共下水道の処理場の活性汚泥法と同じである。だが、各家庭で微生物処理の装置を備えるのであるから、ある程度その原理を知って、微生物にとって有害な薬品などを流さないこと(例えば、トイレ掃除の際の塩酸)、微生物の食べ物にならない物質(合成洗剤など)を流さないなどの禁止事項を守ること。さらに、定期的な保守・清掃や、微生物が繁殖しすぎた場合の処置など日常的なケアーが必要である(日常保守を業者に任せることも、もちろん可能)。
たとえば広島市のサイトでは、浄化槽に関して市民へつぎのような啓蒙をしている。
浄化槽は生きています!
浄化槽に住む微生物が元気に働けるよう、
使用の際にはちょっとした心づかいをお願いします。
- トイレで
- 紙おむつ、衛生用品、たばこの吸殻を流さない。トイレットペーパー以外のものを流すと、つまりの原因になります。
- 台所で
- 使った油や残飯などを流しに流さない。微生物が食べきれません。
- 洗濯で
- 洗剤、漂白剤は適量を使う。微生物が死んでしまいます。
- 浄化槽で
- ブロワ[送風機]の電源を切らない。微生物が窒息してしまします。
|
このような日常的な「心づかい」はともかく、定期的な保守点検などを家庭で行うのは難しいという考え方もあろう。だが、ひっくり返して言うと、公共下水道に頼っていると、自分の糞尿のしまつを
誰がどのようにつけているかについて、まったく無関心になってしまっているということである。それは健全な自律的な生き方とは言えないであろう。
各家庭が浄化槽を持ちそこに微生物群を繁殖させて、自分らの糞尿などのしまつをそこでつけるミニマム・システムを備えていることこそが、健全だという考え方があろう。つまり、浄化槽は下水道ができるまでの繋ぎの一時的装置というものではなく、もっとも理想的な下水処理システムを暗示的に示している、と考えることができるのではないか。小さくて、自分の出したものをできるだけ自分の近くで処理してしまう、という。しかもそれは、ディスポーザーのような機械的な処理ではなく、微生物群を飼っておいてそれに処理してもらうという“共生”の感覚がある。
しかし、浄化槽で重要なことは、正常な運転をしていても汚泥(微生物の塊、死骸)が溜まってくるので、定期的な汚泥除去=「
ひき抜き」が必要であるということだ。バキュームカーに来てもらって汚泥を除去してもらう。通常、1年に1回以上の汚泥除去と清掃が義務づけられている。
ひき抜かれた汚泥は、屎尿処理施設/下水道処理施設/その他で、通常の処理ルーチンで処理される。
(
第5.2.b節で著書『浄化槽革命』を紹介した石井勲の作りだした浄化槽は、ヤクルトの殻の底を抜いたのを使うもので、非常に優れた性能を持っている。石井式浄化槽のホームページによると、槽内の水流の速度をきわめて遅くしているのが特徴で(0.3m/分、一般の浄化槽では6〜7m/分)、多様な微生物が棲み着いていて、有機物を食べてくれる。槽が動的安定状態に入ると、余剰汚泥がほとんど生ずることなく、10年以上汚泥除去をせずに放置して運転が続けられるという。もちろん、放流水の水質はきわめて良好でBOD 1 ppmを誇っている。石井式の実際はグリーン・コンパニオン・レポートが分かりやすい。
石井式を使っている体験記我が家の石井式合併浄化槽・体験記は、リラックスした書き方に好感が持てる。ただし、この体験記では業者に任せて汚泥除去をしているようである。また、うまく運転ができず、苦労しているケースもあるようだ。“石井式浄化槽”で検索して見てください。)
近代−現代の日本では、「下水は下水道で処理するもの」という根強い“信仰”があった。官民挙げての信仰なのだが、歴史的には官主導で形成されてきた“信仰”といっていいだろう。欧米の諸都市で19世紀から試行錯誤的に建設してきた近代的下水道システムをモデルとして、日本の都市へ導入するのが日本の下水道建設であって、はじめは、欧米の技術者の指導を受け、明治末から日本の技術者によって建設されてきた。
たしかに、建設技術を日本人が身につけるのは早かったが、“人間の生活にとって下水道とは何か”という原理的な問いを忘れた促成栽培の技術であった。また、そうであったからこそ、すばやく技術を身につけることができたともいえる。江戸の町の掘り割り下水や糞尿を肥料として使用するために成立していた広汎なシステム(村と町方・移送・請負組合などのシステム)などを、歴史的に切断して、欧米の都市−下水道モデルを移植したのである。
官と学が用意したモデルを、日本の技術者が日本に建設する。実際には、上水道を先にし、下水道は予算不足のためつねに後回しにされてきた。そのため、屎尿肥料の伝統は第2次大戦後まで残ったが、GHQの衛生指導と化学肥料の導入によって、日本経済が高度成長期に入る頃には、ほとんど否定されてしまっていた。そして、「下水は下水道で処理するもの」という“信仰”が成立した。
下水道は官が用意し、民はそれに依存して自分の糞尿・雑排水の処理を官へ“丸投げ”する。
個人下水道(合併浄化槽)は、自分の糞尿・雑排水にかんして、自己責任を負って自分の目の届く範囲内で処理をし、十分に清浄な処理水を中水道として利用し、側溝・小川などに放流する“自己完結的”な処理系を体験する。この日常的な体験は、自分が排出するものについて関心を持つための重要な契機となる。
個人下水道がふさわしいのは、住居が点在しているような農山村集落であり、住居の周辺に小さな水流がながれ、その水流での自然浄化作用をも期待される。個人下水道からの放流水が住居周辺の水流に戻ることによって、そういう環境が維持できることが実感される。しかも自分の環境を流れる川が水涸れしないことに寄与している実感がある。当然、放流水の水質について、自分の責任において、関心を持つことになる。(
小論の第1.1節「わたしの体験」で、幼少年期を過ごした山陰地方の田舎屋敷には、小川が流れていたことをちょっと記しておいた。裏山から直接流れ出している小川で幅50pもない小流である。朝の顔を洗うときから、洗い物も洗濯もみなその小川でやっていた。夕方になると、どの家でも主婦が川端に出て米をといでいた。何軒もの家で使うわけであるから、汚れた水を流さないように気をつけていたのは言うまでもない。そういう小川が部落内を数本流れていた。農業用水のための用水路は別に引いてあった。飲み水は別に山裾の泉までバケツで汲みに行って甕に貯えておいた。)
個人下水道について考えていると、そこには下水処理についてのある原理的範型が存在していることに気づく。公共下水道はこの範型をとてつもなく大規模に拡大したものにすぎないのだが、大規模に拡大することによって、個々の人びとは、自分の排出物の行方について関心を持つことができず、また、自分の生活の場に自然浄化作用が生きていることを実感することもできない。
下水道処理の原理的範型の特徴を、数え上げておく。
-
- (1) 汚物の発生源で、直ちに処理すること
- (2) できるだけ小規模であること、身の丈の装置であること
- (3) 自然の循環を維持して壊さないこと
現在普及しつつある「合併浄化槽」は、合成樹脂容器/小型モーターのファン/嫌気性・好気性微生物 などの20世紀の技術を使用したものであり、さらに今後の改良があり得るだろう。
(5.4):携帯便器の将来性
携帯便器(ここでは、オマルと表記する)には、将来性があると思う。前節の最後で述べたように、「浄化槽」という個人下水道も将来性があると思う。わたしはそう考えている。以下、この節ではわたしが想像し願望する「将来のオマル」について、できるだけ述べてみようと思う。だから、この節は他の節とはまったく性格が異なる。そのつもりで。
なお、第(4.4)節
携帯便器(おまる)で、フランス・中国・韓国・日本の「おまる」について既述したので、それをも参照して下さい。(
蛇足ながらここでは、「おまる」は既存のものを、「オマル」は将来的なものを表すという漠とした基準で、使い分けます)
まず、オマルの特徴を、既述のものを挙げておく。
- 排泄場所を、自由に移動・選択できる。
- 個人(多くとも家族)単位である。
- 排泄姿勢に自由度がある。
- 排棄する時と場所を選べる。夜排泄して、朝排棄するというように。
- 上海の馬桶(マートン)のように、排棄/清掃業者がありうる。
個人下水道(合併浄化槽)のうち、家族単位のもの(最小規模のもの)は、私がここで述べようとしているオマルと近接している。わたしは、個人下水道の十分な改良がおこなわれれば、無理にここで考えているオマルに切り替える必要はないとも思っている。
家の周囲に自然水路があって、それに充分清浄な処理水を放流して、自然浄化力にも期待するという環境はすばらしいと思う。したがって、個人下水道は維持していくべきだと考えている。ただし、ここで考えているオマルは、わが糞尿を直接処理することによって、信頼おける肥料源などとして使えること大きな特徴としようとしているので、個人下水道と併用してよいと考えられる。
つまり、もしここでわたしが考えているような糞尿処理システムができれば、(個人、公共)下水道は雑排水の処理を主眼とするものとなるであろう。
既存の携帯便器(おまる)の機能は、基本的に“簡便な便溜め”にすぎない。大小便をそこに溜めておいて、時間と場所を選んで排棄する、ということ以上の機能はない。わたしが想像しているオマルは、それ以上の“高機能”を持たせて、大小便のしまつを住居内で済ませてしまうことが可能になるようにしたい、ということである。“将来、宇宙飛行士が長期間の宇宙旅行をして宇宙船内でできるだけの循環系を構成しなければならない、という際に考えられるような便所の機能を実現したい”、という風に言えばSFらしくて、わたしの意図が伝わりやすいかも知れない。
わたしが考えているオマルは電気(電子)器具であって、可能なら微生物処理も行う。電気掃除機程度の大きさ・重量で手軽に持ち運べ、個人持ちが普通であるようなもの。機能を挙げてみると、
- 脱臭の能力があること。
- 取り出す際に不潔感がないように処理され包装されていること。
- その包装は、そのまま回収業者に出すか家庭菜園で使える。
- 浄化水が発生することも考えられるが、それは“中水道”に流す。
などが、考えられる。
オマルには、現在の都市の水洗式のように下水道網を前提として各種の異質な下水の中に糞尿を混ぜ込んでしまい、その上で処理・分離するという非能率を避けうる可能性がある。オマルは、各人から排泄された瞬間にその個別のまま処理する方式がとれる。
たとえば、凍結・包装・一時処理というような個別的処理の機能を持ったオマルを開発することはできよう。これに加えて、微生物による本格的な分解処理まで行う“高機能オマル”も可能ではないか。
このオマルで処理した上で、一般ゴミとして捨てるのでもいいし、人肥として再利用する工程に送るべく包装してもいい。ここまでの構想では、このオマルは糞尿をできるだけ、次の処理に不潔感なくおくる、という程度のことしか述べていない。
しかし、少なくとも糞/尿の質的違いを考えて、わがオマルは最初から糞/尿を分離して扱えるようになっているべきである。糞/尿が生理的にまったく違うものであることについては、第5.5.a節
空気・水・食べ物で述べている。尿は体内の細胞膜を通過しているのであって、(健康で排泄直後であれば)まったく無菌でこれ以上に清潔なものはないほどの、しかも、さまざまな栄養素などを含んだ液体である。
- 糞と尿を分離して取り出し、それぞれを有効に使用できるように処理すること。
分離して取り出された尿は、腐敗しないような処置が施されて、輸血と類似のあつかいで有効利用しうる筈である。大便は基本的には肥料としての利用に回したらよい。いずれにしても、現在われわれが行っている大量の水で水溶して下水に流すことで薄め、家庭排水・工場排水・雨水などの非生物経由の物質と混合してしまうのは最悪の方式である。
オマルの有利な特徴を最大限生かした工夫がなされるべきだ。オマルの有利な点とは、
- 個人単位の屎尿の量を見積ることができる。だいたいの上限が分かる。
- 処理に数時間以上の時間の余裕がとれること。
- きわめて栄養価の高い、無害の肥料原料(薬品原料)となりうること。
などを挙げることができる。
いずれにせよ、わたしたちの頭の中にある幾つかの迷妄を振り払う必要がある、“携帯便器(おまる)は便所の間に合わせである”、“糞尿の処理は下水道に任せるべきだ”など。使いやすく、高機能で、小形なオマルが使われはじめれば、便所を超えた排泄用具としてのオマルがその地位を獲得するのではなかろうか。わたしにはそういう期待がある。
モービル・トイレである。それは、食べることの“個性化”に見合った、排泄の自由度の拡大をめざすものである。排泄の自由度とは、“いつでも・どこでも・自然に”とCMコピー風にまとめておこうか。
しかし、わたしたちのオマルがどのようにコンパクトに高機能になろうと、自然の循環系のシミュレーションから離れた空想的なシステムが可能になるわけではない。水の循環系にどこかでアクセスする必要があるはずである。
“糞尿の処理は下水道に任せるべきだ”という“信仰”については、第(5.3.d)節の
個人下水道で述べておいた。近代的な都市下水道の普及はたかだか150年ほど(日本は50年ほど)であるのに、公共下水道がもっともまっとうな汚物処理システムであるという信仰は広くいきわたっている。汚物処理を個々人レベルに引き戻すことに、多くの人はとても臆病になっている。だが、“食べること”の個性化を主張するのと同じ程度の重要さで、“排泄すること”の個性化を主張していいのである。それにはオマルが将来性を持っている。
公共下水道への信仰は、一歩踏みこんで言えば、じつは
公共下水道への白紙委任ないしは、“丸投げ”と言っていいのではないか。公共下水道が何をなしているかについては、知りたくない、知らせないでほしい、という「白紙委任」である。実際には、公共下水道は国−地方自治体が行う税金を使った公共事業である。それに白紙委任することによって、すでに何度も述べたように、われわれは
自分の尻の問題を、“お上”に預けてしまっていることになる。
排便は生物としての人間に必然の行為であるから、個人に生じる現象である。このことには例外がない。食べることの“対”(対偶)として排泄行為が生じる。いうまでもなく、食べることは個人に生じる現象であり、個人が個別に解決する(食べる)しかない。排泄行為もそうである。これらを
極私的行為といっていいだろう。だが、排泄行為は
普遍的な極私であって、必ずしも閉鎖的である必要はない。中国の公衆便所が開けっぴろげであることは、日本の田舎では20世紀半ばまで女性の立ち小便の姿が公然であったのと同様、原理的には何の不思議もない。
排泄物の処理は、個々人に生じた結果のままで、個人のレベルで処理するのがもっとも合理的で(科学的に)容易である。そのためには、すぐれた個人下水道(浄化槽)が今後とも工夫されることを望みたい。
上海の馬桶(マートン)に見られるように、オマルにはその専門の処理業者が成立可能である。都市流通の業種として、各家庭からでるオマル処理物(第1次処理を受けた糞尿)をどのようなシステムにするにせよ集積・集配し、それを肥料や薬品原料などに第2次処理をし、販売する。この専門処理業者は各家庭からと販売先からと、両方から対価を得ることができる。現在、ゴミの集配がなされているが、それの類似のシステムが考えられる。
自由度があって、快適で、経済的負担が軽い(かつては糞尿が有価で売ることができた時代さえあった)などの、オマルにとっての有利な点を生かす。しかも、人類普遍の技術になりうるので(特に都市生活では必需品となるのではないか)、開発動機は十分にある。もし、この種の未来型オマルが商品として当たれば、巨大市場が待っている。
もう一度くりかえそう。
都市の現存の便所=大規模水洗下水道の方式には、将来性はない。将来性のあるのは、20世紀に日本の官僚−巨大産業どもによって考えられてきたような、大規模な下水処理システムではなく、個人別で小規模で、しかもエネルギー多消費型でない設備である。その一例が、個々人に割り当てたオマルと小規模浄化設備をベースにした屎尿処理システムである。個別のオマルを高機能にして、小規模・多数な処理システムにする、という方式には将来性があると思う。この方式の強みは、われらが糞尿は無害/栄養豊富である、という点である。そして、この方式には、小規模・多数のハードを集配するソフト・システムが必須である。
巨大化した都市の
密集には、巨大な下水道システムが必須である。しかし、これは都市全体の汚物排除・廃熱のために必要なのであって、水道の共同性の“対”(対偶)としての下水道である。わがオマルはこの下水道システムのなかから屎尿処理を可能な限り回避させることを狙うものになるであろう。
(5.5):未来をふくむ現在
(5.5.a):空気・水・食べ物
わたしたち人間にとって、生物として生きていくのにどうしても必要なものを挙げれば、
空気・水・食べ物となる。
空気(この中の2割ほどが酸素)は呼吸によって肺から体内に取りこまれる。空気が体にとって必須であることは、ほんの数分ていどの窒息で死亡してしまうことから、疑問の余地はない。ただ、酸素は体内で炭水化物を“燃やして”エネルギーを取り出すのに使われるといわれるが、その働きの欠如がなぜこのような激甚で急激な結果をもたらすのか、ちょっと合点がいかないほどである。
ネット上に、若杉長英(阪大教授)「法医学から見た脳死」という論文があった。そのなかの「脳と酸素欠亡」から。
脳の細胞はどのくらい酸素欠乏に弱いか。呼吸停止後、各臓器・組織が壊死に至るまでの時間を比較すると、大脳の表面にある大脳皮質は、わずか5分の呼吸停止で細胞が死んでしまう。大脳皮質は心臓から最も遠い部分であり、血圧が下がるとこの部分の血流量が不足してくる。延髄では20分以上細胞が生きることができ、心筋もほぼ同様である。細胞によっては何時間も生きているものもあり、脳の細胞が非常に酸素の欠乏に弱いことが分かる(脳と酸素欠亡)。
大脳皮質 | 延髄 | 心肺 | 骨格筋 | 骨細胞 |
5分 | 20分以上 | 10-20分 | 2-4時間 | 20-70時間 |
その理由(生理機制)はよくわからないが、酸素供給が断たれると、脳細胞はわずか数分で破壊されるのである。脳がいかに激しく酸素を使い、炭水化物(ブドウ糖)を燃やしているかが、想像される。そして、その破壊は非可逆的である。
たえず呼吸を行い、酸素を取り込み炭酸ガスなどを体外に出すことを続けていないと、生命は維持されない。「酸素の流れ」をつくって、それのわずか数分の滞りが致命的になるほど、この
循環は深刻な機能を担っているといえる。体内に酸素を溜めておくことができない、といってもいいだろう。(
なお、空気中21%ほどの酸素は一度肺に入って体内にその一部が吸収され、呼気として体外に出されるとき17〜18%程度になっている。人工呼吸の口対口が有効なのである。空気中の酸素が6%以下になると直ちに窒息死の危険あり)
水は数日飲まないと死に至る。水の身体にとっての重要さは、細胞液・血液などの大部分が水溶液であることから、身体構成物質として多量に使用されている(約60%)ことからいちおう納得される。しかし、それだけでは、なぜ、常時(数時間おきに)水分摂取が必要なのか、その差し迫った重要さが鮮明ではない。通常1日2〜3リットルの水を摂取しているという。そして摂取された水は、尿・汗・大便によってたえず体外に排泄されている。たとえば、次は国立循環器病センター(NCVC 大阪府吹田市)の「食事について」という啓蒙サイトから。
水が体重に占める割合は成人で平均60%〜66%です。その3分の2は細胞内液で、残りが血漿、組織間液などの細胞外液となっています。
水は短時間で体内に吸収されて、酸素や吸収された栄養素を血液などに溶かし、すべての細胞に運びます。また老廃物を体外に運ぶことも重要な役目です。汗などでの体温の調節、体液の成分のバランスを保つ役割も担っています。
成人は1日に食事その他から1.3〜1.5リットル、飲む水分として1.2〜1.5リットルの計2.5〜3リットルの水分を摂取し、ほぼ同量を排泄します。通常、排泄量の約3分の1が汗や吐く息から自然に排泄され、残りは尿として排泄されています。体内の水分は飲水や排尿などによって一定に保たれていますが、体内の水分の10%が失われると身体機能に異常があらわれ、20%が失われると死に至ることもあります。このように水分の摂取は大切ですが、糖質やナトリウムを含む清涼飲料は飲みすぎに注意しなければなりません。(NCVC食事について)
労働科学研究所編『労働衛生ハンドブック』(1988)によると、成人1日の年平均の水摂取量は2.6リットルとし、その排出は、
尿 1500,汗 600,呼気 400,糞その他 100ml としている。
仮に2.5リットルの水を摂取し、それを尿として排泄する場合を考える。
尿の中に多種・多量の“老廃物”が溶かし込まれて排泄される。その、老廃物を分析することによって、身体活動の異常を検出する尿検査はおなじみだ。この場合、重要な観点の1つは、尿(汗も同じ)はいったん体内に取り込まれた物質のうち使用済みのもの=
老廃物を水溶液として体外に排出しているということである。人体という生命システムにとっての「ゴミ捨て」を行っているといってよい。
もうひとつ重要な観点は、尿(汗)は
廃熱も行っているということに注目することである。たとえば、15℃の水を飲んで37℃の尿を2.5リットル出したとすれば、
(37-15)×2500×1=55000cal=55kcal
の熱量を体外に捨てたことになる。基礎代謝量(
安静状態で心臓・肺・内臓などの活動に必要なエネルギー)は 1500kcal などといわれるから、これでは、廃熱はまったく不十分である。
水の気化熱が大きい(25℃で583cal/g)ことを利用した発汗作用によって必要な廃熱が調節される。たとえば、基礎代謝程度の熱量の廃熱に必要な汗の量は(仮にすべて蒸発するとして)
1500÷0.58=2590=約2.6リットル
となる。もちろん、基礎代謝がすべて熱量になるというわけではないが、相当程度の発汗量が必要であることは理解されよう。日本クレーン協会のサイトに
「夏の健康チェック“汗の話”」という、いかにもこの業種らしい記事があり、
平均気温が29度の夏に,体重65kgの人が室内で活動すると,一日の汗の量は3リットルくらいになるそうです.もし高温環境の工場で8時間働くと,12リットルにも達するそうです.
と述べていて、水分補給の重要さを書いている。激しいスポーツの場合も同様だが、時間あたり1リットル程度の発汗があり、必要な廃熱を行っている。
身体活動のエネルギーは基本的に化学的エネルギー(たとえばブドウ糖が持っているエネルギー)であって、それの解放(ブドウ糖を酸化する過程)はエネルギーを作り出すが(たとえば筋肉を収縮させる)、そのさい発熱を伴う。この発生した熱を効果的に排出してやらないと、その部位の体温の急上昇をまねき、正常な生理活動が不可能になる。熱容量の大きい水が血液として循環しており、発熱部位から直ちに熱を移動させ、静脈で体表面へ熱を伝導・輻射させて体外に逃がすだけでなく(
動脈が身体の内側に静脈が外側に近く分布しているのは合理的である)、発汗をうながして水の大きな蒸発熱を利用して廃熱する。一口でいうと体温を保つ機能である。身体を熱機関(エンジン)と見たとき、廃熱が正常に働かないとただちに“焼き切ってしまう”ことになり、非常に危険である(熱中症はこれである)。
以上をまとめると、
水は身体の構成要素としても重要だが、常時摂取し排泄するという循環を行っていることの認識も重要である。老廃物は主として尿で、廃熱は主に汗で体外に捨てている。
なお、後に再論するが、尿は体内の構成要素であったものの“老廃物”を溶液として溶かして体外へ排泄するのであるが、大便は消化管を通過してきて体内に取り込めなかった不用物を排泄しているのであって、その重要度がまったく異なる。尿の排泄の方がずっと重要である。(
この点に関して、第5.4節携帯便器の将来性のなかで、尿と糞の分離回収の意味を述べておいた。)
食べ物には多様なものがあるが、
エネルギー源となる炭水化物・脂質などと、
身体をつくるタンパク質、
調節機能をはたすビタミン・ミネラルの3つに大きく分けられる。もちろん、この分類は大雑把なもので、タンパク質はエネルギー源としても使えるし、脂質は細胞膜をつくるのに使われるし、血液中にも含まれ(中性脂肪とかコレステロールとか)、脂溶性ビタミン(A、D、E、K)を供給する役割も重要。
さて、食べ物を口から入れ、咀嚼し唾液と混ぜ合わせ、嚥下して胃に達する。胃では蛋白質分解酵素(ペプシン)や胃酸(塩酸、カルシウムを溶かすこと、細菌の繁殖を防ぐ)が分泌される。食べ物がどろどろの粥状のものになることは“嘔吐物”でおなじみ。
12指腸で、膵液・胆汁が分泌される。膵液は糖質・脂質・タンパク質を分解する消化液、胆汁は脂肪を吸収しやすくする。ここまでは、ほとんど吸収は行われない。
小腸で腸液が分泌される。炭水化物はブドウ糖(グルコース)に、脂質は脂肪酸などに、タンパク質はアミノ酸に分解される。分子量の小さな形に分解される。そして、腸の絨毛などの微細組織において細胞膜を通り抜けて、体内に取り込まれる。
大腸では、小腸で吸収しきれなかった水・ミネラルなどが吸収され、棲みついている多数の腸内細菌の働きによってさらに分解・発酵が進み、吸収が行われる。残余が、大便として排泄される。
食べ物の澱粉も脂肪もタンパク質も分子量が大きすぎてそのままでは細胞膜を通り抜けることができない。そのために、分子量の小さな“原料”(人体を再構成するための原料)にまで分解されて吸収されるのである。吸収されたブドウ糖・アミノ酸・脂肪酸などは血液やリンパ管によって体内の必要な個所、貯蔵所へ運ばれる。ただちに消費されたり、合成過程をへてヒト独自のタンパクなどとなって身体を構成する(牛肉を喰っても人肉ができる)。
消化管(口−胃−腸−肛門)は外界と直接つながっており、第5.1節で消化管は
植物にとっての土壌に相当するものを消化管として体内に取り込み(唾液から始まって、土壌中の微生物に相当する数々の消化酵素が、消化管の中ではたらいている)
と勝木渥『物理学に基づく環境の基礎理論』からの引用を示した。「体内に取り込まれた外界」を通過して、体内に取り込まれなかった残余が大便である。つまり、大便は尿と違って“体内活動の廃棄物ではない”のである。したがって、排便は取り込まれなかった食物残余にすぎないので、排便が滞ること(
便秘)はそれほど緊急で致命的な問題ではない。この点は、排尿が滞ること(
閉尿)の深刻さとは比較にならない。閉尿は尿毒症につながり致命的になることが多い。
(5.5.b):植物・細菌・古細菌
植物は
光合成をする点が動物と大いに異なっている。植物は葉の葉緑体で、太陽光線、炭酸ガス、水によって、澱粉を合成する。
液体の水 + 炭酸ガス + 光量子 → ブドウ糖 + 水蒸気 + 酸素
液体の水が、根から吸い上げられる。炭酸ガスは大気中に平均0.032%(体積%)存在しているが、それを気孔から取り入れる。光量子はクロロフィルなどの色素で吸収されて、水の分解に提供され、そのとき発生した化学的エネルギーと水素原子が、炭酸ガスをとりこむ複雑な回路(カルビン・ベンソン回路)に入って、結果的に澱粉を作り出す。
この反応は光量子を吸収している反応(吸熱反応)である。ブドウ糖1分子について、約16個の光量子が吸収されている計算になるという。上式はその最終収支をあらわしているに過ぎず、途中に、きわめて複雑な多数の反応がかかわっている。
その途中の反応過程を進行させるためには、上式の光量子とは別に、ブドウ糖1分子あたり32〜44個の光量子が必要になるとみつもられる。後者の光量子は「
光合成の役には立ったが、結局は熱になってしまったことになる」(勝木前掲書p103)。この、光合成の化学反応を進行させるのに使われる光量子40個ほどは、発熱反応を行ったことになるから、その廃熱を上手に行わないと反応はすぐ止まってしまう。それどころか、葉緑体を破壊する(焼いてしまう)ことになりかねない。この熱量は水分子128〜175個を蒸発させる際の蒸発熱に相当するという(同p104)。言うまでもなく、この水の蒸発こそは、葉の裏側に多数分布している気孔で行われている
蒸散作用であり、光合成の化学反応に伴って発生する熱を、素早く廃熱するための必然的な作用である。根からあがってきた水が、気孔で水蒸気となって大気中へ蒸散することが必要なのであった。
つまり、ブドウ糖の“原料としての水”だけでは足りないのであって、光合成の化学反応が進行するためには、“原料としての水”の28倍程度の水が必要なのであった(“原料としての水”はブドウ糖1分子あたり6分子必要)。ところが、実際には、光合成で葉の葉緑体が吸収する光は、特定の波長のもの(450,680nm)であって、それ以外のものは反射されるか吸収される。吸収された太陽光は熱となる。つまり太陽光で無駄に暖められることも、かなりあるわけである。それによる温度上昇を廃熱することも計算に入れると、“原料としての水”の約100倍の水が必要とみつもられる(同p108)。
要するに、光合成という奇跡のようなブドウ糖合成過程を進行させるには、原料として使われて澱粉の中に固定される水の100倍程度とみつもられる多量の水が、
根 → 維管束 → 葉 → 気孔
と上昇し蒸散することが必要なのである。そして、この廃熱は大気中へ、水蒸気に担われて拡散する(捨てられる)のである。この地中から大気中へ、植物体の内部を上昇する水流が存在することが、光合成の複雑な化学過程を滞りなく進行させるための
必須の条件なのである。つまり、水冷式クーラーが運転されていないと光合成工場はすぐ焼き切れてしまう、と考えたらいい。
(
ここの、光合成に関する考察は、まったく勝木渥『物理学に基づく環境の基礎理論』に依存して、それをつまみ食いしながら述べているに過ぎない。わたしの叙述にもし特徴があるとすれば、わたしはまだ「エントロピー」という語を一度も出していないことである。
勝木渥が依拠したのは19世紀後半に確立した熱力学の諸法則、特にエントロピー増大の法則であり、この法則を“普遍的な原理”とする立場から(それ以外の立場は、まずあり得ないが)、勝木は考察を展開している。つまり、「エントロピー増大の法則」を光合成の過程に適応してみた場合に、どのような、まだ見えていなかったことが見えてくるか、という問題意識であった(と推量できる)。逆に言えば、古典物理学の原理として確立しているはずの「エントロピー増大の法則」が一部の物理学者以外には十分に理解されておらず、光合成過程の研究に生かされていなかった、という事情があったと言えよう。)
植物の光合成で、炭酸ガスを取り込んでブドウ糖ができる(炭酸同化)ことは、奇跡のようなことであるが、しかし、植物はブドウ糖(デンプン)だけで生きているわけではない。動物(や他の生物)と同じく、その細胞を構成するためにはタンパク質や脂質を必要とする。それらすべては、他の生物と同様に細胞内で合成されている。その原料となる水や養分は根から植物体内に取り込まれ、ブドウ糖の分解過程で生まれる化学的エネルギーを利用して合成する。
水と炭酸ガス・酸素から炭素、酸素、水素は得られるが、タンパク質や核酸に主要元素として含まれている窒素がどこから由来しているかが問題である。窒素は空気中8割を占める窒素ガスN
2として、豊富にあるのだが、N
2が非常に安定で、通常の生物はそれを直接利用することができない。N
2を常温で分解できるのは、マメ科植物の根に共生している根粒細菌など特殊な細菌に限られている。この働きを
窒素固定という。
つまり、窒素固定細菌類によってつくられたアンモニアなどの有機窒素をもとにして、植物もそれを食べる動物も、必要なタンパク質や脂質や核酸などを作っている。つまり、窒素固定細菌が固定した窒素が生物の体の中を、食物連鎖で循環していくのである。ゆえに、地球上の窒素が生物活動によってどのように
窒素循環を行っているか、という観点が重要となる。
人糞尿を肥料として用いることは、近代以前の世界各地の農業で行われていたが、既述のように、中世−近世の日本ほど屎尿を肥料として使う社会的システムを整え、徹底して生かしていた国はない。
19世紀半ばまでは窒素肥料として用いられたのは動植物質有機質肥料だけであったが,1802年にペルーでグアノ(海鳥糞の堆積物)が発見されて肥料に利用されはじめ,また,30年ころにはチリのチリ硝石 NaNO3 が肥料として利用されるようになった。(平凡百科事典「窒素肥料」項目より)
グアノはいうまでもないが、チリ硝石も動物の糞・海藻が原料になっていると考えられている(
硝石の由来については未解明な点あり。なお、動物・人間の糞から硝石ができる現象は、その理由は不明ながら、古くから知られていた。日本でも、古い農家の床下に結晶ができていることが江戸期の文献に出ている。これは、硝化細菌の働きであることが後に分かった。火薬の原料として注目されていたのである。黒色火薬は硝石75%・硫黄10%・木炭15%を混合したもの(比率は1例)。)
窒素循環が根粒細菌などの窒素固定細菌の働きによっていることがはっきりしてきたのは、19世紀末である
(窒素固定細菌リゾビウムが分離されたのが1888年)。すると、必然的に次のような重大な事実に人類が直面していることが明らかになった。すなわち「
この窒素固定細菌の働きによってできるアンモニアに始まる有機窒素以外には、地球上の生物が利用できる有機窒素化合物は存在しない」という事実である。もちろん、過去35億年の生物史のなかで貯蔵されている有機窒素(地上・地中・海)を利用するとしても、人類の人口急増は、チリ硝石などを掘り尽くした後は、窒素固定細菌の作り出す有機窒素の量によって頭打ちになるだろうという悲観的な予言があった。
科学者たちが窒素循環の経路を繋ぎ合わせ始めた20世紀初頭、彼らはパニックに襲われた。堆肥や採掘された埋蔵窒素だけでは急増する人口を支えるだけの肥料を十分に作れないという警告が発せられたのだ。1900年代初期に英国の有名な科学者サー・ウイリアム・クルークスがロンドン王立協会に向けた演説の中で荒涼たる光景を描き出して大量飢餓を警告したことで、その懸念にかなりの信憑性が与えられた。われわれの運命は[窒素]ガスから利用可能な窒素を作り出せるわずか数種類の土壌微生物、窒素固定細菌の活動にかかっているというのだ。(『地中生命の驚異』p121)
20世紀始めは、食糧問題だけでなくTNT火薬の原料としてのアンモニアを求める国家的要請も強大であった(第1次世界大戦は1914〜19年)。
このような情勢の中で、アンモニアの人工合成の研究が各国で必死に行われ、ドイツのフリッツ・ハーバーがアンモニア合成(500℃、150〜200気圧、オスミウムOs触媒)を行ったのが1908年、その工業化は1913年からである。これによって上述のような「窒素危機」は克服され、肥料工業が世界的に隆盛となりそれは同時に火薬製造の兵器産業ともつながっていた。この状況は、現在に至るまで本質的に変わってはいない(人類は高温・高圧下での窒素固定しかできていないということも含めて)。
(
『地中生命の驚異』はF.ハーバーを「窒素を固定した男」として紹介しているが、同時に彼は第1次世界大戦にむけて毒ガス研究を行ったことも書いている。ハーバーが1919年にノーベル化学賞を受賞したとき、「道徳的にふさわしくない」として抗議の辞退をしたフランス人科学者もいたという。
ハーバーは毒ガス研究を行った理由を次のように説明しているという。「化学兵器の恐怖が戦争の短期終結をもたらして全体的な苦しみを減少させる」と(同前p123)。これは、第2次大戦で、米軍が広島・長崎に原爆を投下したことについて、それを正当化するのに使われた論理と同一であることに驚く。)
菌類・細菌類 動物や植物の死体・枯体・排泄物などは昆虫・ミミズ・線虫などに食べられた後、土中の真菌類・細菌類によって、さらに分解が進む。多数の、レベルの異なる「分解者」たちの食物連鎖の共同作業によって、デンプンやタンパク質の巨大分子はつぎつぎに分子量の小さな分子に分割され、物質循環の最底辺まで到達する。
植物が光合成によって炭酸ガスと水から合成したデンプン類は、多様な生物の“呼吸”によって最終的には炭酸ガスと水に戻る。菌類・細菌類においていは、通常の酸素を必要とする呼吸(好気呼吸)以外に、アルコール発酵や乳酸醗酵などの嫌気呼吸がある。たとえば、アルコール発酵はグルコースをエタノールに変え、炭酸ガスを発生させる。メタン生成菌によるメタンガスの発生もある。空気中に出たメタンガスは最終的には、酸化されて炭酸ガスに変換される。炭酸ガスは空気中に出る場合もあるし、水に溶け石灰岩などに取り込まれることもある。これが
炭素循環である。
タンパク質を構成する主要元素が窒素Nであった。空気中の窒素ガスは窒素固定細菌によってアンモニアに固定され植物が利用しうるのであった。そこを基点にしてすべての生物にタンパク質や核酸の形で窒素は広がっていく。排泄物・死体のタンパク類は、菌類・細菌類の分解を受けてアンモニウム塩になる。アンモニウム塩は植物に栄養塩として吸収される。硝化細菌によって硝酸塩に酸化されてから植物に利用される場合もある。硝酸塩を直接窒素ガスにしてしまう脱窒素細菌というものも存在している。これは、窒素固定細菌と反対の働き(硝酸塩→N
2)をしていることになる。硝酸塩は水に溶けて最終的には海に蓄積される。したがって脱窒素細菌が窒素ガスとして窒素を空気中へ放つのは重要な
窒素循環の一環なのである。
工業的な窒素固定が行われ出してまだ100年を経ていない。しかし、人類は無尽蔵に化学肥料を手にすることになったのである。多量な施肥も、下水道処理の不十分さも(下水汚泥から、窒素・リンを取ることが難しいことは第5.3.b節
下水処理で述べた)、いずれも水溶性の硝酸塩類によって、湖沼・内湾の富栄養化をもたらす。糞尿・台所ゴミなどは、多量の施肥によって可能になった大量の農産物が形を変えて下水に入っていくものにほかならないもので、多量な施肥と下水道処理の不十分さによる環境汚染は、深く内的に関連している。
真菌類はキノコなども含む真核生物で、原核生物である細菌類とはまるで違う生物である。が、日本では同一の文字「菌」を使うために混乱が生じている。特に、この分野に疎い素人にとっては、混乱の種である(わたしのことだけど)。
例えば「酵母菌はアルコール発酵をおこない、乳酸菌は乳酸醗酵をおこなう」と書いてあれば、酵母菌も乳酸菌も似たような仲間なんだな、と誤解してしまいがちだ。酵母菌は「子嚢菌類」でキノコ類に近く、乳酸菌は細菌類である。本当は“乳酸細菌”と言うべきところだ。
『地中生命の驚異』の「訳者あとがき」で、長野敬が次のように苛立たしげに述べているのに、まったく賛成だし、この本で多くを啓発された。
いま、根粒菌でなしに根粒細菌と書いた。細菌を「〜菌」と呼ぶのは、青緑細菌(藍色細菌)を「藍藻」と呼んでいたのと同じに、ウーズ以前そしてホィッテカー以前の気楽な単細胞軽視のシステムの名残だ。藍「藻」という生物学的な偏見は急速に是正されつつあるが、結核「菌」というような医学的偏見は、世間で定着していることもあって、改まる気配がない。(前掲書p260)
まったく、“藍藻類”と言われれば、植物だと思うよ。学問的に厳正で“温厚”な立場と思われる筑波大学生物科学系植物系統分類学研究室の藻類のサイトでは、藍藻をつぎのように位置づけている。
藍藻は葉緑体やミトコンドリア,ゴルジ体などの細胞小器官をもたない原核生物の仲間で,系統的にはグラム陰性細菌などとともに真正細菌(Eubacteria)の一員である。しかし,光合成細菌と異なり,真核光合成生物(植物)と同様に酸素発生型光合成を行うために,古くから植物あるいは藻類の一員として扱われてきた。現在では細菌の一部として認識されているが,いまでも慣習の面から,あるいは研究技術が類似していることから藻類として扱われることが多い。
古細菌 メタン発酵というものがある。澱んだ沼やどぶ川からブクリ、ブクリと“沼気”(瘴気)がわき上がってくる現象である。このガスはメタンが6割、炭酸ガスが3割、そのほかに少量の硫化水素、水蒸気などからなる。沼の底に沈殿した有機物が、嫌気的条件のもとで活動する細菌に分解されて水素や炭酸ガス、ギ酸、酢酸などとなる。それらを原料として、メタンを合成する細菌が存在する。これを「メタン生成細菌」という。
このメタン発酵によって、無酸素状態での有機物の分解が保証される。なぜなら、水素生成細菌が嫌気的条件の下で活動しても、水素がメタン生成細菌によって消費されないと活動はすぐ停止してしまうからである。
深海底(数千m)の海嶺に分布する熱水のわき出し口の高温・高圧下で生存するメタン生成細菌が発見されている。これは、地球内部から発生する水素を利用している。
高温(たとえば最適温度85℃)・高圧下の無酸素状態でよく生存する細菌は、光合成生物が発生して大気中に酸素ガスが充満する以前の太古の地球に生存していた可能性がある。ウーズ(R.C.Woese)は、すべての生物の細胞に存在しているリボソームの比較研究から、メタン細菌が、他の生物とまるで異なる特徴を持つ新しい生物分類概念(domain / kingdom)に属すると考えるべきだとした。そしてそれを“古細菌”(archae-bacteria)と名づけた。ウーズの古細菌に関する最初の論文は1977年。
これによって、生物界は、次の3ドメインに分けられることになった。
┌─ 古細菌 (Archaea)
│
│
生 物─┼─(真正)細菌 (Eu-bacteria)
│
│
└─真核生物 (Eucarya) ── 真菌類・植物・動物
従来、古細菌と真正細菌はあわせて「原核生物」といわれていた。細胞核をもたない単細胞生物と分類されていた。だが、この単細胞生物のレベルで重大な進化が行われていたこと、それは動物−植物の飛躍以上の飛躍であったこと、長野敬の言う「単細胞軽視」の頭では発見できないものであったことが明らかになった。
動物や植物や真菌類は真核生物に入る。生物分類史上画期的だったことは、この分類が2分法ではなく3分法だったということだ(
動物か植物か/真核生物か原核生物か)。いまのところ古細菌と真正細菌の“共生”から、真核生物が生まれたと考えられている。しかし、古細菌と真正細菌の発生の先後は簡単に位置づけることができない(
古細菌から真正細菌が生まれたというような関係ではないということ)。
メタン生成細菌は、最初に発見された古細菌である。他には、塩田や塩湖から発見された高度好塩菌や、高温の温泉などから発見された高度好熱菌などがある。
深海底(数千m)の海嶺に分布する熱水のわき出し口の高温・高圧下で生存するメタン生成細菌が発見されている。これは、地球内部から発生する水素を利用している。
生物の活動は、エネルギー源となる物質(食物/栄養)を取り入れ、それを(好気的/嫌気的に)“燃やす”のであるが、化学的エネルギーを解放する多段階の精妙なサイクルを用意してあって、少しずつ化学的エネルギーを解放・利用していくことによって、行われている。生物が利用する食物/栄養は、互いに幾重にも絡まりあった食物連鎖の中で、つながりあって、循環している。ある生物種の身体/排泄物は別の生物種の食物/栄養になる。その連鎖は1本の鎖ではなく、無数の相互関係からなる網の目のようになっている。「食物網」という熟語もある。この食物連鎖(食物網)を通して、
物質循環が行われている。
生物の歴史35億年は、この物質循環を持続してきた歴史である。それは、全生物に共通のDNA様式で遺伝情報が伝えられてきていることが何よりも雄弁に示している。生物が維持してきた物質循環は、DNAを維持するものであった。しかも、それは途中で“進化”(システムとしての進化)しながら35億年持続してきたのである。
生物の変転きわまりなさとはかなさに対して、天地自然の悠久不滅を述べるロマン主義文学などがあった。だが、山岳が大地の褶曲作用で出来たというだけでなく、大陸も動くのである。それに対して、生物の遺伝システムは35億年の古さを誇っている。
生物の変転をいうなら、それと同程度に天地自然も宇宙天然も変転常ないのである。天地自然の悠久・不変をいうなら、生物も悠久・不変であることをいうべきである。わたしは、生命の不思議を思うことしばしばであるが、自分のこの自意識そのものが35億年の生命史の上にあることをいつも思う。そして、それが「カゲロウのごとき、はかなき命」ではなく、山岳・大陸と比べても負けはしない強固な生命システムの上にあると思っている。「カゲロウの命」も山岳・大陸と比べて負けはしないのである。
おそらく生命システムは、“偶然にできた頼りない存在”ではなく、宇宙に遍在する強固な物質集団のあり方(物質系の存在様式)のひとつであるという考え方、つまり、生命が発生するのには必然性があり、それは遍在しているだろうという考え方をとりたい。そうでなければ、35億年というような長年月を生命が持続しうる可能性は少ない、と考える。つまりわたしは、「生命は非常に安定した物質系のあり方のひとつだ」と思う。
(5.5.c):生命活動とエントロピー
わたしたちは、動物・植物・真菌類・細菌類・古細菌と、ごく大雑把に生命活動のエネルギー的な収支および物質循環を見てきた。
海底熱水付近での地球内部からの水素を利用している古細菌を別にすれば、太陽光線を利用する光合成生物は、天体からのエネルギーを直接利用して炭素固定を果たす点で、特筆すべきである。それ以外のすべての生物は、他の生物と食物連鎖(食物網)で結びついて物質循環を動かす一員として生存している。
生物が利用する食物/栄養は、互いに幾重にも絡まりあった食物連鎖の中で、つながりあって、循環している。ある生物種の身体/排泄物は別の生物種の食物/栄養になる。その連鎖は1本の鎖ではなく、無数の相互関係からなる網の目のようになっている。「食物網」という熟語もある。この食物連鎖(食物網)を通して、
物質循環が行われている。
生物の歴史35億年は、この物質循環を持続してきた歴史である。それは、全生物に共通のDNA様式で遺伝情報が伝えられてきていることによって、何よりも雄弁に示されている。DNAという核酸の存在が35億年の間持続するような物質循環でなければならなかった、ということは確実である。
生物の活動は、エネルギー源となる物質(食物/栄養)を取り入れ、それを(好気的/嫌気的に)“燃やす”のである。だが、その“燃やす”過程はけして一気に進むのではなく、化学的エネルギーを解放する多段階の精妙なサイクルがつながっていて、少しずつ化学的エネルギーを解放・利用していくことによって、行われている。
生物は、食物/水/空気を取り入れ、それを分解/合成し、身体を作り/排泄する。生物におけるこのエネルギーと物質の流れは、
二重の流れになっている。ひとつは「分解」の流れであり、もうひとつは「合成」の流れである。
分解−呼吸−燃焼−化学的エネルギーの解放−発熱−(無秩序の増加)
合成−小分子量から大分子量へ−化学的エネルギーを使用−(無秩序の減少)
この二重の流れは、絡み合っていて、別々に分離することはできない。「分解」によって得たエネルギーを用いて「合成」するのだが、「合成」された酵素なしには、「分解」を一歩も進行させることはできない。「分解」と「合成」の二重の流れを分離できないひとつの生命運動ととらえて、そのお互いがお互いの原因であり結果になっている必然性を認識することが大事である。
そして、水(液体の水、水蒸気)の存在が重要であった。多くの段階で発生する熱は速やかに排棄することが必要であり、廃熱は水の潜熱・蒸発熱を使って、環境へ(水中・大気中)へ排棄していた。
その生命活動とは、どのようなものだろう。重要そうな事柄を挙げてみる。
- 栄養を取り、呼吸をし、排泄する(エネルギーを作る)
- 自分の体を作りだしていること(物質合成)
- 感覚、行動、意識活動(これは、合成の合成か)
- 繁殖があること(他個体を作りだす)
生命活動は、身体という「新しい物質秩序の形成」であり、身体の行動(感覚現象・筋肉行動)は「動的秩序の形成」であると考えたい。子孫形成は他個体という、より高次の「形成」と考えることができる。
そこで、わたしは生命活動の特徴を次のように一口でまとめておく。
生命活動とは、物的・動的な新しい秩序の形成である。
この、「新しい秩序」を形成するのに、すべての生物は
分解−合成の二重の流れを外界と身体の間に作りだし、その流れを持続させていることが必要であった。
たとえば、わたしたちが食物を消化管を通して腸で体内に取り込むときには、消化酵素によって小分子量の物質に分解して(タンパク質ならアミノ酸にして)取り込む。取り込んだ上で、ヒトのタンパク質を
合成するのだが、この合成過程はエネルギーを必要とする(ここで、食物から得られるエネルギーが使われる)。しかも、この合成によって、巨大タンパク質分子が形成される。つまり、これはミクロなレベルで起こっている「新しい秩序の形成」なのである。
多数のアミノ酸 → タンパク質分子
生命の場では
持続的にこのような「新しい秩序の形成」が生じている。
ここで生じている反応は、自然界で禁じられている(不可能な)反応ではない。そのことは言うまでもない。禁じられている反応でなければ、自然界では、たまたま偶然に、この反応が起こることは(低い確率かもしれないが)あり得る。しかし、生命の場では、この反応が持続的に起こることが確保されているのである。
多数のアミノ酸が、
あたかもひとつの目的のために集まってくるようにしてタンパク質分子を合成する。この「新しい秩序の形成」の過程は、まるで、
合目的的な行動であるかのように見える。
意味のある行動のように見える。タンパク質分子の設計図がDNA情報として保存しあり、それを読みとり、多数の酵素による精妙な反応の複雑な連鎖の過程が、細胞内で実行される。
わたしは、ここで
エントロピー概念を持ちだそうと思う。
上式の左辺の「多数のアミノ酸」は、てんで、バラバラに並んだり、方向が無秩序であったりしているだろう。原料となる何種かの多数のアミノ酸は、生体内で別々の場所に貯蔵されていて、必要な場所へ運ばれてこなければいけない。その意味で、左辺の「多数のアミノ酸」は無秩序の度合いは大きいわけである。それに対して、右辺のタンパク質分子は、アミノ酸が一定の配列でつながっていて、全体でひとつの立体構造を示し、決まった特徴ある形を持っている。だから、無秩序の度合いは少なくなっている、と考えられる。
この
無秩序の度合いをエントロピーというのである。上式では、多数のアミノ酸が合成されてひとつのタンパク質分子ができることで、エントロピーは減少したのである。
エントロピー = 系の、無秩序の度合い
と考えて欲しい。「無秩序」の定義をしていないので、この式は“雰囲気”を伝える程度の働きしかないが、まあ、それでも、重要なことを定性的(非数値的)に述べることができる。「無秩序」のことを“
熱”というのだと考えていても、それほど間違いではない。
(
エントロピーはきちんとした物理的概念で、数値的に定義されている。単位は【エネルギー÷絶対温度】で、例えば ジュール/Kである。絶対温度T゜Kの熱源からQジュールの熱が系に流れ込んだら、その系のエントロピーは S=Q/T だけ増加する。ただし、小論では Q/T という式がなぜ出てくるか、ということには踏みこまない。)
19世紀後半に確立した
熱力学の第2法則とは、どのような系(考察対象)であっても、その系に対して「エントロピー S」という量を定義することができて、
孤立した系で実際に起こる変化では、系のエントロピーは増加する
というものである。「孤立した系」というのは、熱的な出入りがないように断熱材で覆われている実験装置、というような意味である(詳しくは後述)。
物理学の多くの法則のなかで、この熱力学第2法則は、じつに異風を呈している。それが、どういうことか、思いつくままに書いておく。
- 第1法則は、「質量/エネルギー保存の法則」である。(ゾンマーフェルト『熱力学および統計力学』(講談社1969)の表現を引いておく。熱力学的な系はすべてそれに固有の状態量、エネルギーを持つ。エネルギーは体系が熱量dQを吸収すればそれだけふえ、系が外へ向かって仕事dWを行えばそれだけ減じる。(p13))
- 第2法則の表現法はいくつもあるのだが、ほとんどは“文章”で説明する形になっている。簡明な方程式になっていない点が物理法則としては際立っている。(むろん、凾r≧0 と書いてもいいが、その由縁を述べる文がつくことが普通だ。たとえば、クラウジュウスの表現は「熱はひとりでに低温から高温に移ることはない」であり、ケルビンの表現は「ただ一個の物体の温度をそのまわりの最も冷たい部分の温度よりも下げることによって、仕事を連続的に得ることはできない」である。ゾンマーフェルト前掲書(p27))
- エントロピーSなるものは、「無から生じる」という点で、その他の物理量と雰囲気が違う。そいつは、ある系の中で生まれて、どんどん増えるが、決して消滅しないのである。一度生まれると、移動はするが消滅はしない。しかも、どんどん生まれてくる。この法則は、そういうことを主張している。
- 閉じた系では、エントロピーSが増加するような変化しか起こらないのである。このことは、時間の進行方向を決めている、ともいえる。“この世界では、無秩序が増加するようにしか、物事は起こらない”という言い方で、時間経過の方向を決めている。
- 上式の表現(ゾンマーフェルト前掲書による)では「実際に起こる変化」という言い方が奇妙である。これを読むと、物理学者に「実際には起こらない変化」というものがあるのか、と質問したくなる。これはしかし、エントロピーを数量的に計算するとき必要な「準静的過程」ではない、という意味なので、あまり深く考えても無駄である。
(準静的過程とは、理念的に想定する理想的過程で、釣り合いを保ちながら無限に時間をかけてゆっくり変化を生じさせる過程である。準静的過程は可逆過程である。
具体例をすぐ下の注[ジュールの自由膨張の実験のエントロピー]で、計算方法を示して説明してみる。エントロピーの定義をきちんと知るためには、カルノー・サイクルなどからエントロピーの定義へ正面からぶつかるより、まず、次のような計算を自分でやってみるのが早道だと思う。)
【ジュールの自由膨張の実験のエントロピー】
ある気体をを体積V1 の容器Aに閉じこめておいて、コックCをヒネって、真空の容器B、体積V2 に噴出させる。すると、気体は容器AとBの両方へ、体積V1 +V2 に広がる。この時、外界と熱の出入りのないようにしてあったとする。この実験を断熱的な自由膨張という(単に、断熱膨張というときには、外気圧に向かって膨張する)。
ジュールはこの実験の前後の温度変化を調べ、温度変化がないことを確かめた。二つのガスボンベや断熱材・温度計などが熱を吸うことが考えられるので、難しい実験だと思えるが、ともかく、実験誤差の範囲内で、熱の発生・吸収がないことを確かめたのである。
この実験結果は、
系全体が断熱的で、しかも、気体が外部に向かって仕事をしないときには、気体の内部エネルギーは体積に無関係である。
ことを意味する。これは、気体の分子同士が反発しあったり、ぶつかり合ったりする影響がほとんど無い状態、つまり、充分薄いガスなら、エネルギーが“内部”(気体の分子同士の間)に貯えられることはないと考えてよい、というふうに理解される。
この性質が厳密に成り立つとしたものを理想気体といい、その1モルについて、圧力p、体積V、温度T、気体定数R(=8.31 J/mol K)の間に、
pV = RT
という関係式(状態方程式)が成り立つ。
さて、この自由膨張の実験は、
非可逆的であることは、分かりやすいだろう。Aに閉じこめてあった気体が、真空だったBに向かって、ひとりでに広がり、すぐA+Bに一様に広がって安定する。この状態を元に戻すには、コックCを締めてから、真空ポンプなどを用いて、B内の気体を吸い出してAに入れることをしないといけない。すくなくとも、ひとりでに、最初の状態にもどることはありそうもない。
このような、
非可逆的な変化にともなって必ずエントロピーの増加が起こっている、というのが熱力学第2法則であって、以下、具体的にこの場合のエントロピーの変化を計算してみる。
- 始 状態:体積V1 ,圧力p1 ,温度T
- 終 状態:体積V2 ,圧力p2 ,温度T
温度が共通であることに注意。また、状態方程式があるので、p
1 = RT/V
1 ,p
2 = RT/V
2 となり、圧力は消去できる。
エントロピーの計算は、始状態から始めて、終状態まで到達するように、系にたいして
準静的に変化を加えながら進む。その変化の路をたどりながら、系に接している“熱源の温度T”(系の温度である必要はない)と系に与えられる熱dQとしたときに、つぎの積分を行えばよい(小論では、この式の導出はしていない)。
S = ∫dQ/T
学生にとって、この話でもっとも理解しにくいところは、準静的とか、上の回路積分などではなくて、始状態から終状態まで達する路が、現実の系がたどった路(今の場合「自由膨張」)である必要は
なく、適当に選んだ(無数にある)準静的な路のうちのどれか1つで行えばよい、という点である。たいていの場合は、計算しやすいような路を選ぶことになる。どのような準静的路を選んでも、エントロピーの計算結果は全部同一の値になるのである(そのことを、エントロピーが「熱力学な
状態量」である、という)。(じつは、上で熱力学の第1法則をゾンマーフェルトの表現で紹介したところで、「エネルギーは状態量である」としていた。)
ここでは、2種類の異なる準静的路を考えて、それに沿っての積分計算をそれぞれやってみる。
【計算 その1:等温曲線に沿って】
準静的で、等温的に変化をさせることにしよう。
- 始 状態:体積V1 ,圧力p1 ,温度T
- 途中で :体積V ,圧力p ,温度T
- 終 状態:体積V2 ,圧力p2 ,温度T
とおいて、上式を計算していけばよい。すなわち、温度Tの熱源に接しているガスを準静的に(各瞬間に釣り合わせつつ、無限の時間をかけて)変化させる。装置の外にpと書いているのは、ガスの圧力に釣り合わせるためにピストンに加えている圧力である。
(理想)気体は等温の条件では、内部エネルギーの変化はない。したがって、流入する熱dQは、そのまま外部への仕事pdV(これは、仕事=力×距離から直接に導かれる)になる。
S = ∫dQ/T
= ∫pdV/T
= ∫(RT/V)dV/T (状態方程式を使って変形した)
= R∫dV/V
= Rlog(V2 /V1 ) ・・・・・・ 結論
【計算 その2:断熱曲線に沿って】
今度は、断熱的にV1 → V2 と膨張させ(むろん、準静的に行う)、そのことによって、温度が下がっているだろうから(その温度をT3 とする)、熱源T3 に接っさせて暖めて、本当の温度Tにする。
まず、断熱的な膨張を準静的に行うときは、当然、熱の出入りがない、すなわち、
dQ = 0
であるから、エントロピーの変化はない。しかし、温度変化T→T3 はある。T3 を求めるには、次のようにする。
断熱変化する理想気体について、
ポアッソンの式というものがある。
pV γ = 一定
γ は
比熱比という量で、定積比熱Cv に対する定圧比熱Cp の比、すなわち
γ = Cp /Cv
である。Cp の方がつねにCv より大きいので(最後に使うが、理想気体では R だけ大きい)、γ>1である。
さて、上のポアッソンの式により、
p1 V1γ = p2 V2 γ
状態方程式 pV=RT を用いて、
T V1 (γ−1) = T3 V2 (γ−1)
ゆえに、
T3 = T( V1 /V2 )(γ−1)
これで、T
3 が求まった。
そこで、体積一定のまま、温度をT
3 → T へ上げる。これは、定積比熱Cvを使うことになる。Cv は定数だから、
S = ∫dQ/T
= ∫Cv dT/T
= Cv ∫dT/T
= Cv log(T/T3 )
= Cv log(V2 /V1 )(γ−1)
= Cv (γ−1)log(V2 /V1 ) (ここで γ=Cp /Cv を用いて)
= (Cp−Cv )log(V2 /V1 )
= Rlog(V2 /V1 )・・・・・・ 結論
最後の行は、理想気体について成り立つ
Cp = Cv +R を用いた。
これによって、二つの異なる準静的経路による計算結果が一致することが示された。
なお、この部分は戸田盛和『熱・統計力学』(岩波書店1983)(p30〜63)を参考にした。この本は、瞹眛さなく丁寧に書いてある優れた熱力学の教科書だと思う。
熱力学第2法則を再度掲げてみる。
どのような系(考察対象)であっても、その系に対して「エントロピー S」という(状態)量を定義することができて、
孤立した系で実際に起こる変化では、系のエントロピーは増加する
というものである。そして、この「エントロピー S」は、「系の無秩序性を表している」と考えることができる。
前に、いくつも例を挙げたが、光合成やタンパク質合成などの生物体内で行われる多くの反応は、二酸化炭素やアミノ酸などの小分子を合成して、秩序だった構造を持つ巨大分子を作り上げる反応であった。その反応が進めば進むほど秩序が増加する。それは、
無秩序性の減少に他ならない。つまり、これらの合成反応を見ると、あたかも生物体内で起こっている現象は、エントロピーの減少を意味しているように思えるのである。すなわち、熱力学第2法則に反する反応のように見える。
熱力学第2法則は確固たる経験に基づいている法則であるから、生物の関与する現象についても、きちんと成り立っているのだ、と考えるのが順当である(合理的である)。とすると、あたかも生物体内で起こっている現象が、熱力学第2法則に反する反応のように見えるのは、つぎの2つの、いずれかを意味する。
- 注目している系が、実は、「孤立した系」ではない。
- 注目している系のなかに、見落としている反応がある。
よく考えてみると、この2つは実は、同じことを言い表している場合も多い。見落としている反応が、注目している系を外部の系とつないでいる、というように。
“秩序の増加”のように見える反応の陰に、“無秩序の増加”である反応が進行していて、その両者を併せ考えると、エントロピーの増加のほうが、減少を上回っている、ということになっている筈である、もし、熱力学第2法則が普遍的に成り立つとすれば。
“生命現象は物理学の及ばない神秘な現象だ”という立場に立たない限り、生命現象においても普遍的に熱力学第2法則が成り立っているはずだ、と考えるべきである。しかも、それは、単なる教条主義(お題目)ではなく、生命現象を探求する指針を明示している点で有意義である。なぜなら、生命現象があたかも熱力学第2法則に反するように見えるのなら、「エントロピーの増加をもたらす現象が隠れているにちがいない」ことを主張しているのだから。
例えば、
結露の現象がある。「朝露」でもいいし「鍋のふたの水滴」でもいい。ともかく、空中に広がっていた(拡散していた)水蒸気が集まってきて、液体の水のしずく、すなわち露になる現象である。この現象だけに注目すれば、明らかに、エントロピーの減少である。
第2法則によると、エントロピー増加の現象が同時に進行しているはずである。それは、「物質の拡散」または「エネルギーの発散(放熱)」のような現象であるはずだ。結露の場合は、水蒸気から
気化熱に相当する熱を奪う必要がある。水蒸気からすれば、気化熱に相当する熱を周囲環境へ放出して、自らは液化して水となる。すなわち結露の現象にともなって、水蒸気から周囲環境への熱の移動があった、ということが分かる。
ただ、実際には「水蒸気圧」の問題がある。鍋のふたの場合は、鍋の中が飽和水蒸気圧になっている状態でふたが外気と接していて、そこで水蒸気が気化熱を奪われ結露する、と考えていいだろう。その熱は鍋の底を熱しているコンロから来ている。
朝露の場合は、朝方に大地の放射冷却で気温がどんどん下がっている状態を考えよう。大気中に含まれている水蒸気の量はあらかじめ決まっていると考えてよいだろう。湿った夜とか乾燥した夜とか。気温が下がって、水蒸気圧がその温度の飽和蒸気圧に一致したら、結露がはじまる。水蒸気は大地に気化熱を奪われると、その分だけ結露する。すなわち、
水蒸気 → 大地 → 放射冷却 の流れで熱が移動し、放熱される。
厳密にいえば、その間、気温の低下は止まり、放射冷却は結露に使われている。結露が進んで、水蒸気圧が下がれば、今度は気温の低下が再開することになる。
いずれにせよ第2法則によって、
結露と同時進行で必然的に放熱現象が起こっているはずだという見定めができるのである。
もう1例、大気中の
水循環を考察してみよう。
地表にある水(液体の水)が蒸発し、水蒸気になって上昇し、上空で液化(水さらに氷)して雲となり、雨滴となって落下してくる過程である。
手元の『理科年表』(国立天文台編 丸善)をみると、水の気化熱は25℃で583cal/g、100℃で540cal/g と示されている。これを利用するために、地表の気温が25℃だったとしよう。25℃で1gの水が蒸発して、水蒸気になったとする。このとき、この水は周囲から538calの熱をもらって気化し、水蒸気になったのである。この1gの
水 → 水蒸気 の変化によって
発生したエントロピーは
S1 = Q/T = 538/(25+273) = 1.805 cal/g K
である。分母に登場している273は、摂氏℃を絶対温度Kに変換するためのものである。水の蒸発現象でこれだけのエントロピーが発生し、水蒸気はそれを持って上空へ向かった、と言っても良いし、周囲の環境から熱を吸収した水蒸気が上空へ向かった、といってもいい。ただ、「熱を吸収し」と言っただけだと、この現象が、熱力学第2法則による必然的なエントロビー増加の非可逆な現象であるという認識をともなわない可能性がある。したがって、ここでは単に「熱」とせず、「エントロピーが発生した」ないし「エントロピーの増加」とはっきり言った方がよい。
さて、この水蒸気が上昇していく。例えば、成層圏の上のほう1万m辺りで、水滴/氷になったとしよう。『理科年表』では1万m上空は温度223K(−50℃)、気圧265hPaとしている。この条件での気化熱は不明であるが、仮に25℃のときと同じだとすれば、
S2 = Q/T = 538/223 = 2.413 cal/g K
つまり、温度が低いので、それだけエントロピーが大きくなっていて、上空で行われる放熱によって、S
2 だけのエントロピーを水蒸気は「上空に置き去りにして」雨滴として落下してくる。上の計算では水1gについて S
2 −S
1 = 0.608 cal/g K のエントロピーを上空へ持ち上げたのだ。置き去りにされたエントロピーをもった熱は、最終的には宇宙へ放射される。(
地球が宇宙へ行う熱放射の見積り計算は、ここでは省略する。たとえば勝木渥前掲書の第3章「環境としての地球」を参照されたい。)
つまり、地球からの廃熱(大気圏の水循環を通じた廃熱)は、このようにして、エントロピーを
宇宙へ捨てているのである。
この水循環にエントロピーの観点から注目し、その本質的重要さを最初に指摘したのは、エントロピー学会The Society for Studies on Entropy(設立1983 http://www.entropy.ac/entropy/nyuwkai.html )である。わたしはこの会員ではないが、設立当時からこの学会関連の書物から多くを学んでいる。ここまでに名前をだした勝木渥、槌田敦のほかに、柴谷篤弘、室田武、玉野井芳郎を挙げておく。なお、「自然保護をめぐって」という旧拙稿(1984)をサイト「き坊の棲みか」で公開している。エントロピー学会ができた頃、わたしが関心を持っていたことを書いている。ただ、エントロピーに関してはほとんど触れていない。
【シュレディンガーのネゲントロピーについて】
量子力学の創始者のひとりであるE.シュレディンガーは、20世紀前半の物理学の有数のリーダーであった(オーストリア生まれ、1887-1961)。1943年の講演をもとに『生命とは何か』という有名な本が出版され、その中に「生物は“負のエントロピー”を食べて生きている」という言葉があって、よく記憶された。わたしは岡小天・鎮目恭夫訳の岩波新書(初版1951)を手元に持っているが、1983年・第39刷であり、よく読まれた本であることが分かる。
シュレディンガーが「負のエントロピー」(ネゲントロピー)という語をどのように使っているか、見ておく。
・・・・・・したがって生きている生物体は絶えずそのエントロピーを増大しています――あるいは正の量のエントロピーをつくり出しているともいえます――そしてそのようにして、死の状態を意味するエントロピー最大という危険な状態に近づいてゆく傾向があります。生物がそのような状態にならないようにする、すなわち生きているための唯一の方法は、周囲の環境から負エントロピーを絶えずとり入れることです。――後ですぐ分かるようにこの負エントロピーというものは頗る実際的なものです。生物体が生きるために食べるのは負エントロピーなのです。このことをもう少し逆説らしくなくいうならば、物質代謝の本質は、生物体が生きているときにはどうしても作り出さざるをえないエントロピーを全部うまい具合に外へ棄てるということにあります。(前掲書p125)
エントロピーの差引勘定で、生物体は「負」が勝るようにしている、それが物質代謝の本質だというだけでは足りず、「負エントロピー」を食べていると言ったのである。その限りで、まちがった表現ではない。
しかし、その「負エントロピー」が一人歩きしてしまったので、エントロピーの差引勘定の「頗る実際的な」過程に踏みこんで解明することが疎かになりがちになってしまった。生物活動には、エントロピーを増大する過程にともなって、そのエントロピーを棄てる過程が必ず存在しているのであり、その別々の過程のそれぞれの特性を、それぞれ解明する必要がある。
たとえば、人間(動物)の場合、排尿・発汗などによって廃熱および排汚水を行うことによって(他にも呼気や輻射放熱などある)、生物個体としては「エントロピーが減少している」ような差引勘定になっているのである。食物を採り、水を飲み、呼吸をしていること(
摂取)と、廃熱・排汚水をしていること(その全体を「
排エントロピー」と言っていいだろう)、の差し引きで後者の方が勝っているというのである。われわれはその勝っている分だけ、身体形成をし目的意識的行動をし精神活動をしているのである。すなわち、低エントロピーを創出しているのである。この差し引きの前提となる「摂取」と「排エントロピー」の2つの過程の実態究明をネグって「負のエントロピーを食べている」と言ってしまうと、あたかも食物・水・酸素が特性として「負のエントロピー」を持っていると誤解してしまいがちである。本当は「排エントロピー」過程が働いていることによって、“食物・水・酸素が「負のエントロピー」を持っている”という解釈を許しているというのに過ぎないのに。
(5.5.d):地球圏
地球は、生命が存在している天体である。
(
いまのところ、地球以外の生命の存在する天体は知られていないので、「希有な天体」であるというべきかも知れない。勝木渥は「宇宙広しといえども、生命の存在する天体はこの地球だけであろう、との思いを私は抱く」前掲書p146 と言っている。
わたしは、むしろトーマス・ゴールド『未知なる地底高熱生物圏』(大月書店2000)にしたがって、生命の遍在する宇宙像の方に親近感を覚える。だが、勝木渥は旧制高校(六高)時代に梯明秀[かけはしあきひで]から「人類発生によって宇宙は即自的(an sich)な段階から向自的(fur sich)な段階に入った」という人類発生の宇宙史的意義を講義で聞き(同p151)深く感動したという。
わたしは、梯明秀の名前に懐かしい思いをした。40年も前に、梯明秀『物質の哲学的概念』などで即自的−向自的段階という概念を学んだことがあったからである。そのころわたしは黒田寛一と吉本隆明をまぜこぜに読みながら梯明秀[カケハシメイシュウといっていた]も買い揃えたりしていたのである。)
なぜ、地球に生命が発生したか、いま35億年前と言われているが、よく分かっていない。そもそも、「生命」とは何かが、よく分かっていない。だが、生命の存在様式は分かっている。
生命は、内/外を区別できる境界を持ち、物質/エネルギーが流動する動的安定のなかで、エントロピー減少を意味する、秩序化/組織化を持続的に形成している存在様式の系である。
したがって、この生命系にο、必然的に
随伴して「エントロピー増大」をうち消す系が存在しているのである。そのことによって、はじめて「エントロピー増大」は生命系内で動的に引き算されてトータルすると「負のエントロピー」状態になっているのである。その主たる担い手は
水である。
その水の働きのポイントは、つぎの3点である。
- (液体としての)水が廃棄物をよく溶かして、汚水として排出されること
- 気化熱の大きさを利用して、蒸発(蒸散)によって、大気中へ効率よく廃熱すること
- 水蒸気が大気中を上昇し、上空で雲を作り雨滴(氷粒)となる際に、宇宙へ廃熱すること
生物(動物から細菌に至る全生物)はすべて個体として生存し、体内−体外を明確に区別している。生物個体はすべて必要物質・エネルギーなどを体内にとりいれ、不用物質・廃熱などを体外へだす。その過程で、エントロピーを体外=環境へ廃棄する。環境には水循環が存在していて、エントロピーを「環境の環境」へ棄てる。
大気中に廃棄されたエントロピー(廃熱)は、最終的には大気圏の水循環によって宇宙へ棄てられる。この水循環の永続が、地球生物の生存の永続の必須の条件である。
(
エントロピー排棄の観点から眺めると、「環境」、「環境の「環境」」、「環境の「環境の「環境」」」、・・・・・・という形で環境はかならず階層構造をなしている、という勝木渥『環境の基礎理論』p140〜144 の弁証は見事である。)
大気圏での水循環を復習しておこう。地上には液体の水(海、湖沼、河川)があり、水蒸気となって蒸発して上空へあがり雲ができ(対流圏界面が約11km上空)、低温のため液化(水/氷)し、降雨(雪)となって再び地上に戻る。
地上で蒸発熱を奪った水蒸気は、上空で気化熱として放出する。地上と上空の温度差(地上20℃程度、対流圏上部で−50℃)が存在し、その中で水が循環し、液体/気体と相を変化させていることによって、地上のエントロピーを持ち上げ、宇宙へ棄てている。この絶妙な構成によってエントロピー排棄が行われており、この構成のどれかひとコマが欠けても、この循環はうまく回らない。
- 水の物質としての特異な性質(気化熱・比熱が大きい、氷が水に浮く、ものをよく溶かす)
- 地球表面には(液体の)水が大量に存在する(地球の大きさと質量)
- 地上と上空の温度と温度差(太陽光線の放射、大陽との距離、大気の温室効果)
- 水蒸気が空気より軽い(水の分子量が小さい、水=16、空気=28.8)
水の少ない環境が、非常に厳しいものになることはよく知られている。砂漠などでは、太陽光線が岩・砂などにあたり、そのエネルギーがほとんどそのまま熱になってしまう。その熱を廃熱する水がないために岩・砂は温度が上がり、温度上昇の上限は主として輻射放熱によって決まるであろう(地中への熱伝導は少ないのではないか?)。夜間は輻射放熱によって、地表温度がどんどん下がる。
大規模な気候変動でもない限り、極端に乾燥した環境が自律的に生物の棲める環境に変化する要因はない。極端に乾燥した環境からは、水蒸気の蒸発そのものが少なく、雲ができないからである。異常気象で、突然降雨があっても、植物がないために水をたくわえることが出来ず、土砂とともに一気に水が流れてしまう。
森林を保護する意味は、いろいろあるだろうが、水循環の観点からもきわめて重要であることは論を待たない。水に対する森林の働きは
保水と
浄化の2つが主たるものである。
降雨の雨粒は、大気中を落下してきて、最初に森林の葉にぶつかる。さらに、小枝を伝わり、幹をつたって地上に降りてくる。地上の下草を濡らし、落葉の堆積の間に溜まりコケに水を与え、土壌に染みこむ。森林に生息する生物は水を飲み、体内にとりこむ。樹木は地中に張りめぐらせた根から水を吸い上げる。地中の小生物も真菌類・細菌も必要な水をとりこむ。
降雨が続けば、コケの間に早くも小水流が生まれる。土壌に染みこんだ水は、土中を長い時間をかけて伝わって、最後は地下水路に達する。崖の端から地表にあらわれ滴ることもある。小水流が、やがて谷川となり、それが合流して河川となる。
これらの、多様で複雑な環境(微環境)があるために、降雨が河川となるまでに、長い時間を要する。健全に発達した森林であれば、降雨が一度に山肌を流れ下ることがなく、森林が十分な
保水機能を持つ。ゆっくり時間をかけて移動する水は、森林に生息するあらゆる生物に利用される。もちろん、森林を構成する植物自体にも利用されて、より発達した複雑な森林を作り上げる。
植物の蒸散作用で空中に出るものもあり、生物体内を通って尿として老廃物を体外に運び出した水もある。土壌の水溶性物質を溶かし込み、河川に流れ入る。
多くの生物に利用されるのも、地下にしみこんで地下水となるのも、森林の内部で水がゆっくりと移動することに基づいている。
自然界に存在する淡水全般について書かれたもので、E.C.ピルー『水の自然誌』(古草秀子訳 河出書房新社2001)ほど想像力をかき立てられ、科学的に厳密で、しかも、詩情をたたえているものは知らない。内容は地下水の存在形態から河川、湖沼、湿地、プランクトンと多岐にわたっていて、しかも挿し絵の図表がすぐれている。ここで、この魅力的な本の紹介を兼ねて、川と倒木を扱っている箇所を引用しておこう。
まず、樹木だ。森林流域では、河川は粘土や砂や礫ばかりでなく、落ち葉や木の枝などの有機物も運んでおり、それらは水面に浮かんでいるものもあれば、水に浸かっているものものある。さらに、水流の障害物といえば、丸太は巨礫よりもありふれている。森林地域の河川では、・・・・・・階段をつくているのは、組み合わさった巨礫ではなく倒木である。
・・・・・・巨礫のダムは構成している岩石がしっかり組み合わさっていれば何世紀でももつのに対して、倒木のダムは有機物であるために、比較的すみやかに分解する。倒木は微生物によって弱められ腐敗し、水生昆虫に噛みくだかれて餌にされる。(『水の自然誌』p173)
どうだろう。そもそも、谷川を横切る倒木がつくる「ダム」について取り上げているような著作に、わたしは始めて出会った。
流れがあまり速くなければ、大量の落ち葉や木の枝などが積み重なってダムをつくる。そうしたダムは、濾過器の働きをして、上流から運ばれてきた木屑や無機堆積物(粘土や砂)をさえぎる。ダムはしだいに大きくなり、洪水が起これば流される。木屑のダムは、河道幅の数倍の間隔でかなり規則的に形成されることが多い。
このあと、山道によく見かける雨の流水の後の「落葉のダム」の跡である「葉が積み重なってできた低い階段」についての詳細な分析がある。なお、この本の原著『Fresh Water』は1998年の出版で、著者はカナダ在住。第11章「顕微鏡でしか見えない生物」はプランクトンや細菌を扱っているが、古細菌や「青緑色細菌」(藍藻のこと)についてきちんとした記述になっている。(
第5.5.b節植物・細菌・古細菌で長野敬の苛立ちを紹介したが、苛立ちなく読むことができる。)
水辺には多数・多様な生物が棲むことができる。水中にも多様な生物圏が広がっている。というより、現在の地上の生物は、長い進化の過程で水中から上がってきたものである。地上の昆虫でも卵−幼虫時代を水中で過ごすものは多い。水中微生物が水底の小石や泥に多数棲んでいる。川底のぬめり・水苔の薄い層は、微生物の集まりである。大きな岩や礫や砂、水辺の葦や水草。それらが作り出す複雑で多様な微環境に、それぞれ適した微生物が棲み分ける。水流があり酸素豊富な場所。水がよどみ低酸素の泥の層。
これらの多様な水辺−水中の生物たちは、水流が運んでくる枯葉枯れ枝・生物死体・老廃物などの有機物を“食べる”。多様な微環境の中に多種多様な微生物が棲み、それぞれが独特の“食べ方”をするのである。そのことによって、有機物の分解が止まることなく、徹底的になされる。この自然の分解過程では「余剰汚泥」はあり得ないのである。
食物連鎖の鎖は、単にながい鎖であるだけでなく、多様な手法が駆使される鎖である。その鎖の連続の中で、有機物はだんだんと分子量の小さな物質に分解されていく。この分解の過程が、水を清浄化する過程でもある。水の
自然の浄化作用というのは、このことにほかならない。
この自然の
浄化作用の一部をとりあげて、工業技術的に大規模・高速化したのが、現在の下水処理法の「活性汚泥法」であることは、すでに述べた。
下水に空気を吹き込んで好気性細菌に“汚物”を食べさせる。空気を吹き込むのに多量の電力を使うが、その分、高速化をはかれるので、現代の都市下水の処理法として好まれているのである。エネルギー多消費型の手法として、現代都市に適合しているというだけのことであって、けして、望ましい処理法だということではない。
下水処理技術は、自然の浄化作用の一部分を取り上げてシミュレートしているに過ぎないので、下水中の汚物を完全に分解し終わることは不可能である。「余剰汚泥」が出ることが避けられない。第5.3.b節
下水処理では、4割程度が余剰汚泥となるという記述を紹介しておいた。
その余剰汚泥を、「汚物」のそもそもの発生源である農地・牧場などへ戻すのが理想的だが、それは難しい。汚泥の中に有害物質が混入していること、コンポスト(堆肥)化しても必ずしも農家がそれを求めるとは限らない。(
日本国内には、有機農法をおこなう農業者や地域循環型農法を試みている地域があるが、そういうところの需要を大きくうわまわる大量の余剰汚泥が発生しているはずである。なぜなら、日本は大量の農作物輸入国であるから。この点も第5.3.b節で既述。)
多量の化学肥料が農地に施されているのが現状であり、それが植物体となって食糧となる。家畜飼料となって肉・乳製品となる。とすると、それを食べて糞尿を排泄し、下水処理されてできるのが余剰汚泥である。仮に余剰汚泥の全量を農地などへ戻すことができたとすると、多量の化学肥料が不用になってしまう。
現代の工業社会では、大量の化学肥料を生産しそれをたえず消費する必要がある。余剰汚泥は循環させる必要はないのである。循環しては困るのである。余剰汚泥の多くは焼却処分し、その焼却灰を埋設するか、建築素材・道路舗装素材などとして使う。つまり、循環させないのである。そして、循環させないことが現代の工業社会が存続するための要請でもあるのである。
くりかえしになるが、気づいた点を列挙しておこう。
- 「活性汚泥法」の巨大な処理場の汚水槽のなかでは、激しく吹き込まれる空気気泡にもまれながら好気性微生物が有機物を食べる。したがって、この汚水槽では定着した安定した環境を好む微生物は繁殖しにくく、自然の水流・水辺におけるような多様な環境が用意されていない。つまり、自然の浄化作用のきわめて局部的な一面を巨大化し高速化したのが、現代の下水処理である。そのため、処理の歩留りが大きい。
- 下水処理では、嫌気性環境で「嫌気消化」がひきつづき行われる(ことがある)。そこで発生するメタンを燃料として使用できるし、窒素やリンの消化も計れるので消化処理は望ましいのだが、現代の都市下水のシステムのなかでは生かし切れていない。というのは、この嫌気消化が半月〜1月の時間を要するからである。
ただ、個人下水道では、合併式浄化槽で嫌気/好気過程が組み合わされているのが普通である。「高速化」を求めなければ、それが可能なのである。
- 工場下水などを受け入れる下水(混合処理)で、微生物に有害な物質が流されたり、微生物の食物になりえない無機/有機物質が流されたりする。雨水を受け入れる(合流式)ことによっても、有害煤塵などの流入は避けられない。家庭排水にも洗剤などで微生物処理できないものがある。
- 下水処理の最終産物=余剰汚泥の処理が容易ではない。含水率が大きく、焼却処分は不経済であるが、大量であることと処理速度を考えると、それに頼らざるをえない。ここでも石油多消費型の技術が主役である。
- 下水処理の最終産物=余剰汚泥は、結局“廃棄”される。これは、現在の下水処理の致命的なところだ。自然の循環系のなかに組み入れることができていないのである。
人間の食べ物はみな自然物(生物)である。それを食べておいて、糞尿を自然へ戻すことができないのである。これは、自然からの収奪システムである。
- 巨大な化学肥料生産企業は、この収奪システムをこそ求めている。土地(アメリカなど)に投入される多量の化学肥料で生産される農産物は、遠隔地・外国(日本など)へ輸送(輸出)されてそこで消費される。その結果生じる余剰汚泥は焼却処分され、埋設される。このすべての局面で、(石油)エネルギー多消費型の方式がとられている。
この収奪システムという農業のあり方の致命的な点は、この方式を続けると土地が痩せて荒廃地と化してしまうことである。
痩せた土でも、化学肥料を与えることで相当程度、作物を作ることができるのは事実である。しかし、それを続けていると病害虫に非常に弱く、冷害にも弱くなっていく。また、アメリカなどでは、雨によって表土が流出し荒廃してしまう現象が広く見られている。農地の砂漠化である。これらは、土中微生物が減少することによるものらしい。
第5.1節「ユーゴー」で「菌根菌」を紹介した。これは植物の根のまわりに棲む真菌類(カビ)の一種であるが、「これら菌根菌の働きは、化学肥料をあたえると不要になるためか抑えられて」(服部勉『微生物を探る』新潮新書1998 p192)しまうという。
菌根菌とは別に、植物の根のまわりには厚さ数ミリの根圏とよばれる細菌やカビのとくべつのすみ場所があります。根圏の中では外側とはちがった細菌、カビが活動しており、細菌全体の密度は外部の数倍以上であることが一般的です。また健康な根の表面にも細菌が集落をつくって分布していますが、根が生長する先端には微生物がいない無菌部分があります。
健全な植物の根圏や根面の微生物は、根から分泌される糖などを栄養として利用する一方、アンモニア、硝酸、リンなどの無機栄養物を植物に供給しています。また根に侵入しようとする病原菌を阻止するはたらきをします。(服部勉前掲書p192)
化学肥料だけで育てる作物が病害虫に弱くなるメカニズムの説明はこのようなものであるのだろう。有機農法をおこなっている水田が冷害に強い理由のひとつは、化学肥料と農薬にたよる水田とは、冷夏の際に土中温度が違うことが挙げられている(3℃違う例があるという)。土中微生物の活動によるものであろう。
永続的な農業のためには、有機農業(化学肥料・農薬の使用をできるだけ抑える)が必要である。だが、単に「有機肥料」というだけでは不十分で、ある農地でとれた作物はできるだけその地域で消費し、植物体(藁稲、枝葉など)や糞尿・残飯などもその農地に返して循環させることを目指すべきである。それが可能であるためには、農業で作物を作ることを「商品をつくる」と考えないことが根源になければならないと思う。商品が市場原理で売買されることになれば、国際的食糧企業・肥料産業・農機具産業に向きあわざるを得ず、商品として敗北する可能性が大きい(消費者と直結という方式もあるが、それは本質的解決にはならないだろう、とわたしは考えている)。
「地域循環型農業」という理念を掲げている山形県長井市のレインボー・プランなどは、有望だと思うが、残念ながら生ゴミ回収にしか目がいっておらず、屎尿肥料の問題が正面切って話題にされていないようだ。
東京都の場合、下水として処理場に流入してから最終的な焼却灰がどれぐらい出ているのか、表にしてお目に掛ける。
東京都の下水処理のトータル量(2000年度の年間量)
受水量 | 17億3898万m3 |
汚水排出量 | 11億4367万m3 |
汚泥処理量 | 6068万m3 |
濃縮汚泥量 | 977万m3 |
消化汚泥量 | 137万m3 |
脱水汚泥量 | 109万 t |
脱水汚泥焼却量 | 103万 t |
焼却灰発生量 | 4万7266 t |
多量すぎて、とらえにくいが、日量にすると脱水汚泥焼却量は 2831t/日、焼却灰発生量は 129t/日。毎日4t トラック700台余の汚泥を焼却炉に入れ、32台余の焼却灰ができるということになる(実際には汚水処理場−焼却場の間は送泥管で移送している)。(
受水量=汚水+雨水。蛇足ながら、水なら1m3の重量=1t なので、上表の単位は、流体にたいしてはおよそ同一単位とみなしていい。最下段の焼却灰は水が飛んでるので別。)
(5.5.e):未来をふくむ現在
わたしたちは、食べ、排泄する。これは、生物としての人間の基本的与件である。したがって
排泄行為は、人間にとって普遍的であり、将来とも変わらない。変わりえない。
人造肛門は珍しくないが、肛門のない人間は口のない人間とほぼ同義であって、ありえない。体内からの老廃物を水溶させて排泄する尿は、さらにわれわれの生命活動に内的に直結しているのであって、人工腎臓(透析)はあっても、排尿という排泄行為をそのものをやめることはできない。
わたしたちの排泄行為は、生物としてのわれわれが地球の生物圏の一員としてその物質循環の一端に加わっていることの、日常的な実践なのである。なぜなら、食べるのは(水やミネラルなどを除けば)すべて生きものを食べるのである。野菜もワカメも米も大豆も魚も肉も・・・・・・、すべてが生きものなのである。だから、われわれは、排泄物を
次の食物連鎖の鎖に受け渡すしかその処理方法を知らないのである。いま、下水道処理がおこなっている活性汚泥法などもすべて、自然界の物質循環の不細工なシミュレーションにすぎない。「次の食物連鎖の鎖に渡す」以外の処理法を人間はやったことがないのだ。
だが、それにもかかわらず、われわれの糞尿は「次の食物連鎖の鎖に渡す」ことができずに、焼かれて灰になったり、有毒金属と混ぜられて地中に“廃棄物”として棄てられたりしている。したがって、厳密にいえばその部分は処理をしていないのだ。隠して棄てているにすぎない。窒素やリンはとりきれないので、かなりの割合で環境水系へたれ流してしまっている。
遠隔地/外国の農場でとれた作物が都会に集中し、糞尿が処理され/処理されず、廃棄・埋設され/環境へ出てしまう。
化学肥料 → 農場 → 消費地 → 下水処理 → 埋設・環境。
この物質の流れは循環せず、偏頗な一方交通を意味する。そして、農地の荒廃と、環境の富栄養化を結果する。現代の成熟した産業社会が作り出すこの膨大な物質の流れは、とどまることなく、続いている。
排泄行為
明るく清潔な水洗トイレで排泄行為を済ませ、温水便器で尻を洗ってもらい、
適度に柔らかく吸湿性のあるトイレットペーパーでちょっと水気を吸い取らせて、
コックを捻って下水へ流し去る。
ゴボ、ゴボ、ゴボ。
これが、われわれの毎朝行う欺瞞行為だ。
なぜなら、この排泄行為は完結していないから。
「ああ、サッパリした」
本当は、すこしもサッパリしていないのだ。
ゴボ、ゴボ、ゴボ の終端では、
石油多消費で焼くか、どこかへ排棄している。
見えないようにしているだけの欺瞞。
生き物たちが、わが体内を通過して、
糞尿が生まれる。
そこまでは、35億年前から地球生命の王道だ。
だが、わが糞尿は、
生き物たちの循環世界へ戻ることを禁じられている。
自分の糞尿を石油多消費で焼却処分しようが、有毒物質と混合されて地中に排棄されようと、かまわない。いま自分が快適ならそれで良いんだ、という態度はありうるし、現代文明の態度がそういうものだとも言える。産業資本主義の高度な発展段階にある現代文明は、
時間的には刹那主義である。それを極端な形で表しているのが“エッジ・ファンド”などの金融情報企業である。
だが、この現代文明の態度が問題なのは、「その態度は永続できない」という点なのだ。
石油がいわゆる「化石燃料」で有限の埋蔵量しかなければ、石油を使い切ってしまうときがいつか来ることは明らか。ただ、昨今の情勢からは、埋蔵石油の涸渇の問題よりも、炭酸ガスやメタンガスの増加による
地球温暖化のほうが差し迫った問題となっている。
産業資本主義の高度な段階である現代文明に
時間性を入れることが求められている、とわたしは考えている。需要−供給、欲望の実現というような資本主義経済理念の根底に、時間性を入れることが、わたしの根源的なモチーフである。生物がかかわる地球の物質循環系を遮断しない人間活動を基礎にする、というのはひとつの時間性の入れ方である。
では、なぜ「現代文明の態度が永続できない」ことが問題なのか。これには、わたしはひとつしか解答はないと思っている。それは「生命は未来を必要としている」からである。未来を前提にしないと、生命はあり得ない。
生命にとって未来とは
子孫である。自分の次に生まれて来る「若い世代」を前提としないで生命活動はあり得ない。これは、ほとんど生命の定義である。
人間は観念世界(「生命活動の「活動」」)を持っているが、そのこと自体がすでに時間性を意味しているというべきである。なぜなら、「生命活動」を振り返って見るという「「活動」」こそが時間性の根源であると思うからだ。(梯明秀に敬意を表して、「向自的活動」といってもいい。)
「石油は化石燃料ではない」というトーマス・ゴールドの説も、段々有力視されてきている。ゴールドの訳本2冊『地球深層ガス』(日経サイエンス1988)・『未知なる地底高熱生物圏』(大月書店2000)は、いずれも実に面白い。メタン・ハイドレートの発掘も具体化しつつあり、日本周辺に日本人の消費する燃料百年分はあるとも言われている。ただし、石油に対抗できるほど安価に採掘出来るようになるかどうかはまだ未知数。経済産業省の息のかかったMH21は、経済的に掘削・回収する技術開発のプロジェクト。
むしろメタン・ハイドレートは、惑星生成論をふまえて地球深部から上がってくる炭化水素の流れがあるというゴールド説を、支持する有力な証拠として意義があるとわたしは思っている。
それにしても、この膨大な埋蔵炭化水素の起原をすべて化石植物に求めるのは無理があるのではないか。石油を「化石燃料」と言いきってしまって、まったく疑問を呈していない論を見ると、知的怠慢じゃないかとさえ思う。
地球温暖化による南北両極地帯の氷融解/海面上昇/異常気象などは、すでに近未来を考えるのに無視できないファクタになっている。世界農業の動向・食糧生産の問題が、人口急増にともなって深刻な問題になりつつある。この周知の問題は論者も多いことなので、ここでは触れない。
わたしがこの問題(物質循環を断ち切る現代産業社会の問題)に目を開かれたのは、槌田敦『エネルギー 未来への透視図』(日本書籍1980)を読んだときで、20年ほど前である。
農村から、米、麦を町へ持ってきた。町では、もはや処理能力が無いから汚染になるわけです。要するに、更新性資源の使い方というのは、出来た場所で使って、出来た場所に落とす、というのが一番良いのです。これしか生き延びる方法は無いのです。(p62)
石油文明の特徴は内燃機関にあり、またこれによる遠距離の大量輸送にある。現在アメリカから大量の食糧が日本に運ばれてくるが、おそらく、近い将来、アメリカの農地は収奪の結果疲弊して作物が出来なくなるだろうし、日本の農地は減反などで完全破壊されて、これまた生産しなくなるだろう。今、石油文明後を指向する決心をするとすれば、この遠距離輸送の否定から始めるべきであろう。つまり、食糧というのは、生物循環の一部分であるから、人間のところでこの循環を切ることは、将来の保証をきることなのである。人間が食糧を利用したことによる廃物は、食糧を得た土へ返すことが必要になる。そして、人間社会を含めた生物循環が発生する種々の形をしたエントロピーを水循環に渡し、最終的には宇宙へ棄てるというエントロピーの流れを取り戻す必要がある。(p107)
小論を書くために再読してみたが、この本は古ぼけているところはほとんど無かった。日本の食糧自給率は現在ほぼ40%(熱量ベース)で、1960年に82%だったのが、とどまることなく減りつづけ40年で半分になった(なお、穀物自給率だけだと現在28%という恐ろしいほどの数字)。輸入先はアメリカ、中国、オーストラリアなど(1998年でアメリカが38%(金額ベース)で、断然多い)。
アメリカでは化学肥料を大量に与え、遺伝子操作作物を用いて、農作物の大量生産を行っている。「穀物メジャー」と呼ばれる多国籍企業などが操る国際市場を介して日本は食料を輸入している。槌田の指摘しているように、その「廃物は、食糧を得た土へ返すことが必要になる」はずだが、もちろん、「穀物メジャー」はそんなことを考えてもいない。痩せた土地は放棄して、べつの土地で多肥農業を行うまでなのである。土壌の劣化(砂漠化)は世界で毎年500〜600万ヘクタール(日本の農地面積程度)と見積もられている。一方、水資源の涸渇も重大である。深井戸による揚水の過剰によって、地下水位が下がり国土全域を深刻な水不足が襲っているところが、世界中でいくつも指摘されている。
たとえばレスター・R・ブラウンのネット上の論文
水不足は食糧不足に直結する(2002)が具体的に状況を説明しながら指摘したのは、イエメン・イラン・エジプト・エチオピア・スーダン・メキシコ・中国華北地方などである。アフガニスタンの水不足はペシャワール会の中村哲医師の活動で知られている。インド・パキスタンも、そしてアメリカも水不足から無縁ではない。
つまり、石油多消費型の文明にどっぷり浸かっているわれわれは、土壌の砂漠化と水不足を
構造的に招いているのである。日本人は世界中から食糧を大量に輸入して、ふんだんに食べる。それがどのような国際巨大企業の思惑に沿ったことなのか気がついていない。そんなことには関心がない。けれども、世界各地の農地で収穫した食糧をはるばる輸入してきて、その糞尿は再び石油で焼却しているのである。
生産地の土壌が痩せる一方であるのは、当然である。引き算ばかりしているのだから、これはエコロジカルな
収奪である。痩せた土壌から作物を売るために、化学肥料の多肥で農耕を行う。この方式は
長続きしない。土壌の微生物が生きていけないからである。
しかも、いまだに日本では「米の減反政策」が行われている。1970年代に始まったこの愚行はいったい何であったのか。米価格と税金投入が最も問題だったのではないか。「穀物メジャー」とどのような取り引きがあったのか。第2次世界大戦の時期にもっとも厳しかった国家社会主義的な統制を、戦後も延々とひきずり、半世紀以上経た現在に至っているのである。
水田は、保水装置としても非常に優れており、水環境の保全の意味でも「減反政策」は愚行であったと思う。社会全体が産業資本主義を超えようとする現在、農業そのものが見直されるべきである。日本のような高度資本制社会では、農業は食物生産の意義だけでなく、環境保全の意味を持っているものとして、水田維持を奨励して良いのではないか。トラクターなど大型機械の使用をおさえ、できるだけ小回りの利く小機械と人力による小規模農業をめざすこと。しかも、食物生産を基本的には自家用の食物生産に限定し、商品としての農作物の育成を奨励しないようにするのである。専業農家という発想は止めて、食糧自給をしつつ「三ちゃん農業」の伝統を引き受けるという“家庭菜園”の発想でよいのではないか。農業を産業資本主義化しなければならない必然性はないのではないか。農業はみずからの口に入れる食べ物をつくる特別な仕事であって、大量・画一的な巨大産業である必要はない。現代の巨大農業は、18,19世紀の植民地主義の生き残りなのではないか。
プランテーション経営が膨大な数の現地民を非自立的な貧困労働者に追いやり、外から持ちこんだ商品としての食糧を買って食べる生活を強制した。
(
「三ちゃん農業」という語も、死語になっている。「20世紀の流行語」サイトを調べると1963年の流行語だという。高度成長期にかかって、働き盛りの男は勤めに出て家におらず、じいちゃん・ばあちゃん・かあちゃんの「三ちゃん」でかろうじて農業を行う状況を揶揄した言葉。)
同様に、林業・水産業などの1次産業を「三ちゃん産業」として見直すこと、あるいは、その産業に意義を見いだす者の「生きがい産業」として継続させること、などの発想の転換が求められている、と考える。
できるだけ食べ物を商品にせず、遠くへ運搬せず、地域で消費して循環せしめることが、価値ある物質循環系であると考えること。この価値観転換なしには、現代産業文明を越えていくことはできない。
生きているかぎりいましかない。
それが生命のあり方だ。
つねに生命はいまのなかに実在している。
過去や未来がどこかにあるのではない。
いまのなかに過去も未来も含まれている。
それが生命のあり方だ。
しばらくこのまま生きていると、ある日、未来が来ているわけではない。
そのときもやはりいましかない。
いま生きている
このわたしたちの生き方が
未来の人びと、つまり
わたしたちの子孫の負担を作りだしているのに気づくことほどの憂鬱はない。
その子孫たちと直に顔を会わせることはないからかまわないとは言えまい。
なぜなら、彼らは未来のわたしたちだから。
いまは未来を含んでいる。
未来はここ以外のどこにも存在しない。
「食べて出す」そのことが
わたしちの子孫の負担を作りだしているのは憂鬱である。
じつに、憂鬱である。
毎朝、憂鬱である。
あとがき
「女の立ち小便」、「男の座り小便」についてそれぞれ、個人的な体験があって、小論を書いてみる気になった。
といっても、深刻な個人的体験があったというわけではない。「女の立ち小便」は、わたしの幼少年期に周囲で見聞きしていた普通のことだったということ。「男の座り小便」はチベット方面を日本軍の探偵として潜行した木村肥佐生・西川一三という二人の希有な男たちを知って調べたときに、珍しい習俗として知った。それらのことは、小論の始めの頃に書いておいた。
「小便」の排泄行為について書き進めるうちに、わたしが思いもかけなかった分野に関連がついてきた。そのたびにわたしは遠慮なく新しい分野に踏みこんでいった。なかでも驚いたのは女性下着の問題だった。服装や仮面の問題を、わたしは「ライ病」について調べたときに発見したのだが、それが、下着問題で甦ってきたのである。「見かけ」とか「皮膚感覚」ということが人間にとって本質的に重要だということ、しかも、この問題は形而上的な分野にすぐ結びつく“挑発的な”分野だということなどである。
隣接する分野としては「仮面」や「演劇」がある。スカトロギーについては、J・G・ボーク 『スカトロジー大全』を第3.3節
「尿筒」で、ほんの申しわけ程度に紹介した。もっともっと、広く深い世界があることを感じているが、自分の力量不足で、踏み込めなかった。
下水道問題をめぐって、20年ほど前に考えていた地球規模の食糧問題や環境問題につながったことも、じつは意外だった。いずれも重大で難しい問題であって、第5節はほんの素描程度にすぎない。関連する種々の分野に、ちょっと、当たりをつけてみたという位だ。けれども、わたしたちの糞便の問題が直接、世界の物質循環や産業社会のあり方に結びついていることを示そうとした、というだけで意義はあると思っている。
下水道建設に関連しては、日本の官僚制のこと・制度としての科学のことなどそれぞれ別々の文脈で関心を持っていたことが、一度に関連づいて出てきてしまった。そのために、第5節はいろいろなものを詰め込んで、見苦しく統一のとれないものになってしまった。しかし、わたしの現状を表しているので、このままにしておこうと決心した。
また、そのために、ふくらんでしまった第5節だけをファイルとして切り分けて別立てにした。
いつものわたしの流儀で、新しいことをつぎつぎに学んでいくことが面白くて、終点に到着するのに思いもかけず手間取ってしまった。書き出してからほぼ9ヶ月である。大多数の文献はわたしの居住地周辺の公立図書館を利用した。公立図書館の多くもインターネットに接続するようになったので、自宅で原稿を書き進めながら、必要な本を探したりその本の閲覧を予約したりできる。そういう方法で文献を発掘する面白さを、わたしは十分に楽しんだ。
新しい知識を得ること自体の面白さと、公立図書館の利用という至極“平民的”な手法の面白さをわたしは強調しておきたい。
内容的な手法(方法論)としては、わたしが前から継続してきたやり方をここでも踏襲した。つまり、
自分が実際に体験した事実を核として位置づける。そうして、その核に出発点を置いて、そこから探索の手を伸ばして、飛躍せずに連続的手法で到達できる範囲のものを記述していく。
自分が興味を覚えているかぎり、どんどん探索の手を伸ばしていくこと、わたし自身が面白く思っているのなら読者にも面白いはずだという前提で、進める。小論においても、この方法論が有効であったことを実感している。しかし、「女の立ち小便」から出発して、都市論や地球環境まで話が広がることは予想していなかったので、自分としては“どの辺で納めるか”ということで苦労した。
引用について、お断りをしておく。
小論に引用した文章・図について、一切、著作権者に許諾を求めていない。多くのものは、学術目的での引用ということで許される範囲内であろうと考えているが、わたしに落度がある場合もあろうかと思う。お気づきのことがあれば、下記メールへご指摘いただければありがたい。直ちに、必要な処置をとります。
お気づきのように、わたしは引用の際にはうるさいほど出典を明記したつもりである。関心を持つ読者の便を図るためであるが、著作者への敬意と感謝の気持ちの一端を表そうとしてもいる。
ごく少数の読者であっても、読んでくださる方があるというのは、拙論のようなものを書く際にとても重要である。実際には読む人がゼロであっても可能態としての読者が存在しているというだけで、大違いである。わたしのように小さなサイトを開いて、その上でものを書いていくという手法は、インターネット時代のひとつのやり方であると考えている。
感想やご批判を下記メールへ寄せていただければ、ありがたい。
大江希望
kib_oe@hotmail.com
2004年3月
文献
ここに掲げたのは、私が小論のなかで引用したり言及した文献に限っています。完璧ではありませんが、公立図書館で閲覧する際の情報として十分だと思います。
(順序はほぼ出現順ですが、正確ではありません)
nb. | 作者・編者 | 作品名 | 出版社、出版年(分かれば初版年) |
1. | | 暮帰絵詞 | 続 日本絵巻大成4 中央公論社1985 |
2. | 渋沢敬三 編著 | 日本常民生活絵引(第1〜5巻) | 角川書店1965 |
3. | 渡辺信一郎 | 江戸の女たちのトイレ | TOTO1993 |
4. | 西川一三 | 秘境西域八年の潜行 上巻 | 芙蓉書房1978新装頁 |
5. | 井上章一 | パンツが見える | 朝日新聞社2002 |
6. | 永六輔 | 旅=父と子 | 角川文庫1975 |
7. | 須藤功編 | 写真で見る日本生活図引4 すまう | 弘文堂1988 |
8. | 曲亭馬琴 | 羇旅漫録 | 日本随筆大成 第1期1 吉川弘文館1975 |
9. | 小山田与清 | 松屋筆記 | 国書刊行会1908 |
10. | 喜多村均庭・信節 | 嬉遊笑覧 | 日本随筆大成 別巻7-10 吉川弘文館1979 |
11. | 周達観・和田久徳訳注 | 真臘風土記 | 東洋文庫507 平凡社 |
12. | 椎名誠 | ロシアにおけるニタリノフの便座について | 新潮文庫1990 |
13. | 十方庵敬順 | 遊歴雑記初編 | 東洋文庫499,504 平凡社 |
14. | 山路茂則 | トイレ文化誌 | あさひ高速印刷出版部2001 |
15. | 西沢一鳳 | 皇都午睡 | 新群書類従1 第一書房1976 |
16. | 南方熊楠 | 南方熊楠全集5 | 平凡社1972 |
17. | 安田徳太郎 | 人間の歴史1〜6 | 光文社1951-57 |
18. | 礫川全次編著 | 糞尿の民俗学 | 批評社1996 |
19. | 井筒俊彦訳 | コーラン | 岩波文庫1957 |
20. | ジョン・G・ボーク スイス・P・カプラン編 | スカトロジー大全 | 岩田真紀訳 青弓社1995 |
21. | 大野盛雄,小島麗逸編著 | アジア厠考 | 勁草書房1994 |
22. | 西岡秀雄 | トイレットペーパーの文化誌−人糞地理学入門− | 論創社1987 |
23. | 鈴木了司 | 寄生虫博士トイレを語る | TOTO出版1992 |
24. | ヘロドトス | 歴史 | 松平千秋訳 筑摩世界古典文学全集10 |
25. | マルタン・モネスティエ | 排泄全書 | 吉田春美・花輪照子訳 原書房1999 |
26. | 渋沢敬三編 | 明治文化史12 生活編 | 洋々社1955 |
27. | 小西正捷編 | スカラベの見たもの | TOTO出版1991 |
28. | 李家正文 | 糞尿と生活文化 | 泰流社1987 |
29. | 鷹司綸子 | 服装文化史 | 朝倉書店1991 |
30. | 鴨居羊子 | わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい | 初版1973 旺文社文庫1982 |
31. | 上野千鶴子 | スカートの下の劇場 | 河出書房新社1989 |
32. | フリードリッヒ・S・クラウス | 日本人の性と習俗 | 安田一郎訳 桃源社1965 |
33. | 菅江真澄 | 菅江真澄遊覧記1 | 内田武志・宮本常一現代語訳 東洋文庫54 平凡社1965 |
34. | 内田ハチ編 | 菅江真澄 民俗図絵 | 岩崎美術社1989 |
35. | 佐藤哲郎 | 性器信仰の系譜 | 三一書房1995 |
36. | 千葉徳爾編 | 日本民俗風土論 | 弘文堂1980 |
37. | 千葉徳爾 | 女房と山の神 | 堺屋図書1983 |
38. | 間壁葭子 | 考古学から見た女性の仕事と文化 | 日本の古代12『女性の力』中央公論社1987 |
39. | 桐生操 | やんごとなき姫君たちのトイレ | TOTO出版1992 |
40. | | 信貴山縁起絵巻 | 日本絵巻大成4 中央公論社1977 |
41. | 畑中純 | 愚か者の楽園 | 新潮社2000 |
42. | 畑中純 | まんだら屋の良太 43 | 双葉社1987 |
43. | 伊丹十三 | 日本世間噺体系 | 文春文庫1987 |
44. | 猪瀬直樹 | 天皇の影法師 | 新潮文庫1983 |
45. | | 天狗草紙 | 続日本絵巻大成19 中央公論社1984 |
46. | 五来重 | 絵巻物と民俗 | 角川選書1981 |
47. | 五来重 | 宗教民俗集成4 庶民信仰の諸相 | 角川書店1995 |
48. | ジャン・フェクサス | うんち大全 | 高遠弘美訳 作品社1998 |
49. | 河口慧海 | チベット旅行記 1〜5 | 講談社学術文庫1978 |
50. | 和田正平 | 裸体人類学 裸族から見た西欧文化 | 中公文庫1994 |
51. | 宮本常一 | 絵巻物に見る日本庶民生活誌 | 中公新書1981 |
52. | 木村伊兵衛 | 木村伊兵衛写真全集 昭和時代第1巻 | 筑摩書房1984 |
53. | 上野千鶴子 | 対話編 性愛論 | 河出書房新社1991 |
54. | 李家正文 | 厠まんだら | 増補新装版 雪華社1988 旧版1961 |
55. | 高倉テル | ミソクソその他 | 恒文社1996 |
56. | 長谷川町子 | いじわるばあさん 4 | 姉妹社1969 |
57. | キャサリン・メイヤー 近藤純夫訳・エッセイ | 山でウンコをする方法 自然と上手につきあうために | 日本テレビ放送網1995 |
58. | 西岡秀雄 | 絵解き世界の面白トイレ事情 | 日地出版1998 |
59. | 斉藤政喜・内澤旬子共著 | 東方見便録 | 小学館1998 |
60. | 大田区立郷土博物館編 | トイレの考古学 | 東京美術1997 |
61. | 鈴木了司 | トイレ学入門 | 光雲社1988 |
62. | 真山増誉 | 明良洪範 | 国書刊行会1912 |
63. | エンゲルベルト・ケンペル | 江戸参府旅行日記 | 斉藤信訳 東洋文庫303 平凡社 |
64. | 滝田ゆう | 寺島町奇譚 ぬけられます | 青林堂1971 |
65. | 林丈二 | 型録・ちょっと昔の生活雑貨 | 晶文社1998 |
66. | | 餓鬼草紙 病草紙 | 日本絵巻大成7 中央公論社1977 |
67. | | 宇治拾遺物語 | 日本古典文学大系27 岩波書店1960 |
68. | 都丸十九一 | 写真でつづる上州の民俗 | 未来社1999 |
69. | 森川昌和 | 鳥浜貝塚人の四季 | 日本の古代4 『縄文・弥生の生活』中央公論1986 |
70. | 井上満郎 | 古代都市の成立 | 日本の古代9 『都城の生態』中央公論1987 |
71. | エヴァ・C・クルーズ | ファロスの王国 | 岩波書店1989 |
72. | わかぎえふ | すみっこのすみっこ | 双葉文庫1997 |
73. | ヴィクトル・ユゴー | レ・ミゼラブル | 井上究一郎訳 河出書房新社1989 河出世界文学全集10 |
74. | 岡並木 | 舗装と下水道の文化 | 論創社1985 |
75. | デヴィッド・W・ウォルフ | 地中生命の驚異 | 青土社2003 |
76. | 服部勉 | 大地の微生物世界 | 岩波新書1987 |
77. | 服部勉 | 微生物を探る | 新潮新書1998 |
78. | 勝木渥 | 物理学に基づく環境の基礎理論 | 海鳴社1999 |
79. | 見市雅俊 | コレラの世界史 | 晶文社1994 |
80. | ロジェ=アンリ・ゲラン | トイレの文化史 | 大矢タカヤス訳 筑摩書房1987 |
81. | 川添登 | 裏側から見た都市 | NHKブックス1982 |
82. | アリストパネス | 平和 | 『世界古典文学全集12』高津春繁編 筑摩書房1982 |
83. | エンゲルス | イギリスにおける労働者階級の状態 | 岩波文庫 (上下) 1990 |
84. | 立川昭二 | 病気の社会史 | NHKブックス1971 |
85. | 藤井秀夫 | 江戸・東京の下水道のはなし | 技報堂出版1995 |
86. | 渡辺京二 | 逝きし世の面影 | 葦書房1998 |
87. | 東京都下水道局施設管理部/編 | 東京市下水道沿革誌 | 初版大正3年 東京都下水道局再発行1978 |
88. | 小林茂 | 日本屎尿問題源流考 | 明石書房1983 |
89. | 藤森照信 | 明治の東京計画 | 岩波同時代ライブラリー1990 |
90. | 村野まさよし | バキュームカーはえらかった! | 文芸春秋1996 |
91. | 厚生省 | 日本の廃棄物 | 厚生省 |
92. | 宇井純 | 合本 公害原論 | 亜紀書房1988 |
93. | 東京百年史編集委員会 | 東京百年史 全6巻別巻3 | 東京都1972〜78 |
94. | 高崎哲郎 | 評伝 技師・青山士の生涯 | 講談社1994 |
95. | 青山士写真集編集委員会編 | 写真集 青山士/後世への遺産 | 山海堂1994 |
96. | 石井勲・山田国廣 | 浄化槽革命 | 合同出版1994 |
97. | 中西準子 | いのちの水 | 読売新聞社1990 |
98. | 中西準子 | 都市の再生と下水道 | 日本評論社1979 |
99. | 中西準子 | 下水道:水再生の哲学 | 朝日新聞1983 |
100. | 中西準子 | 水の環境戦略 | 岩波新書1994 |
101. | 本多淳裕 | 環境バイオ学入門 | 技報堂出版2001 |
102. | 東京都下水道局 | 下水道東京100年史 | 東京都1989 |
103. | 自由評論社編 | 東京都下水道事業大観’80年度 | 自由評論社1980 |
104. | 古賀洋介 | 古細菌 | UP BIOLOGY 東大出版会1988 |
106. | ゾンマーフェルト | 熱力学および統計力学 | 大野鑑子訳 講談社1969 |
107. | 戸田盛和 | 熱・統計力学 | 物理入門コース7 岩波書店1983 |
108. | シュレディンガー | 生命とは何か | 岡小天・鎮目恭夫訳 岩波新書1951 |
109. | トーマス・ゴールド | 地球深層ガス | 日経サイエンス1988 |
110. | トーマス・ゴールド | 未知なる地底高熱生物圏 | 丸武志訳 大月書店2000 |
111. | E.C.ピルー | 水の自然誌 | 河出書房新社2001 |
112. | 槌田敦 | エネルギー 未来への透視図 | 日本書籍1980 |