第1節 | : | 興亜義塾・語学好き |
第2節 | : | 出発・「西北」という概念 |
第3節 | : | タール寺・パンチェン・ラマ |
第4節 | : | ツァイダム盆地・風葬・日本批判・ラサへ |
第5節 | : | 自治政府・アヘン |
第6節 | : | 敗戦・カリンポンの町 |
第7節 | : | 西川一三・ドクター・グラハムズ・ホームズ |
第8節 | : | 東チベット探査行・反政府活動 |
第9節 | : | 帰国後・戦争/戦後責任 |
文献 |
いたずらな子供たちから反応を引き出すのに苦労はいらなかった。私のモンゴル語の発音が奇妙ならば、面とむかった笑いころげる。この親切な笑いのために、子供たちは私にとって貴重きわまる教師となっていた。大人たちは礼儀正しすぎて私の間違いを笑うことができなかったからだ。(『偽装』p22)
数時間の発音練習に加え私は1日に50から百の単語を暗記すべくつとめていた。まず単語を知り、次ぎにそれを覚えるのは1日がかりの仕事であった。・・・・・・こうした努力は十分に報われた。日々自分の周囲に新たな世界が生まれていったからだ。私の決意はゆらぐことがなかった。いったん発音[モンゴル語の発音システム]を習得してしまえば、新たに膨大な数の単語を覚える手間をのぞけば、さしたる困難に直面することはない。モンゴル語と日本語は文章の構造が非常に似通っており、これがモンゴル語がごく自然に口に出てくる要因のひとつとなった。(『偽装』p23)木村自身が後年知ったと書いているが、現地の子供から言葉を学ぶという方法は、河口慧海が1897(明治30)年、インドのダージリンでチベット語を学ぶときに採用したのとまったく同じ方法であった。慧海は寄宿することになった家族とその子供から通俗チベット語を、仏典を読むための正規のチベット語をチベット語教師から並行して猛勉強している。慧海も「6,7ヶ月で一通りのことはまあチベット語でしゃべれるようになった」と書いている(『チベット旅行記(1)』p41)。
ある意味で善隣協会は後の平和部隊やUSAIDのような米国の団体と比較することもできるだろう。会員の多くは私のように若く、多少ロマンチックで、少なくとも最初のうちは、信じられないほど純真で理想に燃えており、満州やモンゴルなどにたむろする普通の若い民間人とは大違いだった。この地にある青年の多くはできるだけ手っ取りばやく大金をこしらえ、その大部分を歓楽街につぎこむことに熱中していた。学校や病院を設置したのも、日本のイメージ改善[を目的とする]以外のなにものでもなかったが、協会に勤務するものの大半は地元の人々と深い絆を培い、結果として軍部と対立することになった。(『偽装』p17)「結果として軍部と対立することになった」という意味深長な語句の背景は、まだここでは説明されていない。「鉄道ぞいに配置された善隣協会の学校の生徒は、中国人、中国系のイスラーム教徒、モンゴル人が大部分だったが、現地の人々に混じって働くはずの日本人青年もまたここで訓練を受けることになった」という。とすると、学校がいくつかあり、その生徒はさまざまな民族や異なる宗教・民俗をもった多様な現地人からなっていたことになる。そういう多様な現地人の間に混じって訓練を受ける「若く、多少ロマンチックで、少なくとも最初のうちは、信じられないほど純真で理想に燃えて」いた日本の青年たちが何を学んだか。「大東亜共栄圏」の“理想”を真正面から信じていた青年たち、木村はその典型のひとりと考えることができる。
興亜義塾では1年間学科(蒙、支、露3ヶ国語、西域の地理、歴史、政治、経済)それに軍事訓練を受け、さらに1年間は日本人の住んでいない蒙古高原にひとりで放り出されて蒙古人と生活をともにし一蒙古人になり切る訓練を身を以て体験した。(『秘境西域8年の潜行』上巻p42、以後この書物は『秘境』と略記する。上・下・別の3巻の膨大なものである。)西川は木村と東チベット調査の困難な旅を同道し、1950年に同じ船で帰国することになる。木村と対比して考えることによって、木村の理解も深まると思うので小論では今後、いくども取り上げることになると思う。(西川は山口県、1918(大正7)年生まれで、木村より4歳年長だが、福岡の修猷館中学を卒業後、満鉄に入社。1940年には大同の華北消費生計所長となっている。そこに惓きたらず、興亜義塾に入塾し直した。満鉄を退社して来るというだけでも、ただ者ではないことが分かる。義塾での学年は木村の1年後輩(『秘境』上巻p42))
蒙古善隣協会に西北研究所というのができるから、その所長になってくれというのである。・・・・・・今度の人選も森下正明・梅棹忠夫・中尾佐助(大阪府大教授)といった探検仲間に、あらたに藤枝晃(京大教授)・甲田和衛(阪大教授)・野村正良(名大教授)など現在の第一線教授をずらりと並べた堂々たる陣容だった。副所長にはいまは故人になられた石田英一郎さん(元東大教授)を迎えた。(中略)今西錦司は上の引用の後に、蒙彊学院の卒業生が2人「西北方面に派遣」されたまま行方不明になったことを承知していたこと、戦後になりそのうちのひとりの西川一三が『秘境』を出版したことを書き、「もっと読まれてもよい本である」と言っている。
この調査行の中から私の“遊牧論”が生まれてきた。それとともに、いままでのカゲロウの研究では絶対に視野にはいってこなかった動物社会における群れというものの存在を、蒙古人の放牧する家畜の群や蒙古高原を方向するカモシカの群を通して体験することができた。このことは私のその後の学問の展開と深いかかわりがないとはいえない。(中略)
もし戦争が長引くなら、西北方面に勢力を伸ばそうという考えがどこかにあったのであろう。わたしのいた研究所に西北研究所という名がついていたのもそのためであるかもしれない。西北はシルクロードに通じている。私も一度は行ってみたいところであるが、そこへ行く前に私はまずチベットへはいって、インド側からのアプローチが閉ざされたヒマラヤを、裏からのぞいてみたいというねらいがあった。(「私の履歴書」(1973)、「今西錦司全集」第十巻p459)
私は面接官に少々ついていた。・・・・・・おそらく彼は鉄道ぞいにすむ日本人の若者の生活ぶりを目のあたりにして多少ショックを受けていたに違いない。多くは交易会社に勤務しており、政府の仕事をしているものは少数であった。そしてすくなからずの若者が快楽産業に関わっていた。つまり売春宿に女の子を斡旋し、ぽんびきをやっていたのである。木村は正直に、年に1,2回は半年分の給与を詰めた財布をもって張家口の歓楽街に耽溺したことを述べている(これに関しては、第5節のアヘン問題のところで、再び扱う)。だが、それ以外のすべての時間を木村は実験農場での労働と、モンゴル語の研鑽にあてていたようである。その意味では徹底した「求道」的な生活と言ってもよいと思う。彼は草原の現地人の包[パオ]を訪問して、モンゴル語方言を学んでいる。 彼は語学の天才であったと言ってよいと思うが、異民族に交わるのに語学から入っていき、その異民族の文化の学習・習得の全体を、語学学習の延長上に位置づけて理解していくのである。その独特のユニークな方法を10代の末のモンゴル人との交わりの中で自ら開発している。
私の生活ぶりを知った面接官は感銘を受けたようだった。どうやらこの期間に面接した徴集兵の中で、みこみありそうな者は草原に住む私だけだったようで、面接官は私がまことに有益な仕事をしており、兵士になるより効果的に国に奉仕しているとの言葉をもらした。(『偽装』p45)
当然ながらこの期間にモンゴル人の生活習慣や民族的特性といったものも学び始めていた。会話だけでは飽き足らず、この新たな文化を身をもって体験したくなっていたからだ。ある意味では、これもまた高度な語学学習と言えた。言語が異なっているように、モンゴル人の立居振舞の一切が、床への座り方から、茶碗の持ち方、お茶のすすり方に至るまでのすべてが、日本人である私の身についたごく自然な所作とは、微妙にずれていたからである。Lの発音と同様、こうした些末な誤りとためらいが、私が外国人であることを暴露してしまうに違いなかった。(『偽装』p25)「生粋の外モンゴル方言を楽しむ」といい「方言を習得するのが趣味」になっていたと述べていることに注意して欲しい。モンゴル語の学習が、広域に分布しているモンゴル方言の聞き分けを習得することに深まっており、学習というよりも楽しみ・趣味であるという。 彼は「モンゴル人の生活習慣や民族的特性」を学ぶことをも「高度な語学学習」と位置づけている。
さほど 遠くない外モンゴル避難民部落も新たな友人を作るのに適していた。日本人はこうした外モンゴルからの避難民に対してきわめてよくしてやっていた。彼らの故郷を侵略する計画をもっていた軍部は、彼らを協力者として用いるつもりだったのである。軍部はまたモンゴル人民共和国によって禁じられたモンゴルの最高位の活仏ジェプツンダンパ・ホトクトの転生者捜索計画に資金を提供していた。この地域で働いていたおり、私はよく生粋の外モンゴル方言を楽しむためにこうした部落に馬を走らせたものだ。(同p32)
ある日西モンゴルの果てからの巡礼者の一行が、中国北西部の聖地五台山巡礼の帰途この地を通りかかった。・・・・・・このころには私もモンゴル語の方言を聞き取れるようになっており、方言を習得するのが趣味になっていた。これほど離れた地からきた人々の言葉をききとれて私はうれしかった。モンゴル語は地方によってさまざまなバリエーションがあったが、お互いに理解可能であることを私は発見していた。(同p41)
ふだん先生は私達チベット人よりもきれいなチベット語でお話になりましたが、少し飲み過ぎたり、今回のように少し興奮すると、ペマがベマになったり、ダワ・サンボがダワ・ザンボになったりというように、少しモンゴルなまりのチベット語を話すのでした。(『偽装』p380)この簡単な評だけでも、木村の語学修得能力が尋常なものではなかったことが分かると思う。木村肥佐生の人生において、語学学習を手がかりに異民族へ入っていくこの手法こそがもっともオリジナルなものであると言ってよい。
蒙古人の友として、彼らと衣食住をともにして日を過ごすうちに、私は蒙古人とその遊牧生活にいいしれぬ愛着を感じるようになった。同時に、内蒙古滞在中に私は蒙古語の方言に興味を覚えた。内外蒙古の方言は別として、西部蒙古から来た巡礼ラマたちの珍しい方言にひかれたのが病みつきであった。(『潜行』p16)ここに語られているのは「冒険」とか「探検」といわれるものの心情に近いのだろうと思う。ただ、未知の辺境を踏破するというような学術調査・スポーツ的探検などが持つ“権威”(学界なりスポーツ記録などの“権威”) を前提にした情熱ではなく、あくまで個人的に「いいしれぬ愛着」と言ってしまうような情熱である。それは“美的”とか“芸術的”と言った方が当たっているような情熱である。このことは今西錦司や中尾佐助などの知的エリートと違い、木村が中学卒であったことと関連していると思う。
まだはっきり知られていない西部蒙古族トルゴート族の息吹に接したい。何かしら私をとらえてはなさないラマの国をのぞいてみたいという私の希望は、日一日と強くなっていった。
年々多くの蒙古人がこの[青海省やラサへの]参詣に旅立つ。ある者は多くのラクダを連ね、ある者はただ一頭のロバを追い、ある者は着のみ着のまま一個の木椀をふところにして、ひょうひょうとその旅に上る。その旅は数年を要し、ある者はついに帰らない。・・・・・・若い私の夢と冒険心はかぎりなくふくらんでいった。(『潜行』p20)
義塾の青年たちは「土民軍」と呼ばれた。かれらは草原を天地としてラマ寺廟や遊牧 民の張幕に起居し、ほとんど張家口に出て来ない。彼らは真実心の底からモンゴル人を愛し、その言葉を語りその食物を口にしその衣服をまとう日常を送っていた。今から回想すると、この人々はきわめて単純であり、また滑稽なくらい狭量でもあったが、モンゴル人との友情は純粋なものであった。その蒙古びいきと一本気とは、往々にして「国策」と衝突し、張家口では田舎者扱いされることが屡々であった。わたしはこのことを特に言っておきたいと思う。(p28)この後藤の推薦文は他のものに比べてかなり長く、満州の現場にいたものとして、戦後の時勢に迎合せずに率直に証言している。そして、その限りで、西川や木村の心情をよく説明していると思う。
重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ・・・・・・米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亜ノ禍亂ヲ助長シとあるのが、その重慶政府である。
蒙古をとりまいて黄河の南岸オルドスには八路軍がおり、五原後套地区の善覇丹[シャンパタン]には傳作義[ふさくぎ]のひいきる中央軍、寧夏省には馬鴻逵[ばこうき]の回教軍がいる。聞くところによると、馬鴻逵は日本が寧夏経営に乗り出す場合、彼の身分を保証してくれるならば日本側に協力してもよいともらしたそうである。傳作義は蒋介石に命ぜられてこの馬の監視役をしている。・・・・・・このような情勢のもとで、西北ルートを通じて援蒋物資がどんどん中国に送られてくる。日本政府もこの実態を知りたがっていると聞いたので、私はよいチャンスだと思って西北行を志願した。(p21)「中公文庫版のためのあとがき」での木村の「西北ルート」の説明はかなり具体的である。今ではこういう方面の事実が忘れられつつあるので、引いておく。
(ビルマ方面からの援蒋ルートが日本軍により封じられ)アメリカ、イギリスは、ソ連の北極海に面した不凍港ムルマンスクに物資を陸揚げし、シベリア鉄道、トルクシブ鉄道を通じてそれをアルマアタの北方アヤグースに運び、そこからさらにトラックで、新疆、甘粛省を経由して重慶へ搬送していた。いわゆる西北公路である。日本空軍はその爆撃を計画したが飛行距離があまりに長く、結局一度も実行されなかった。一方、関東軍や北支方面軍を中心に、日本人、中国人、蒙古人の情報員が何人も派遣されたが、ほとんど消息不明となり、無事に帰ってきた話を私はついぞ聞かなかった。(『潜行』p282)日本の「西北」への関心の根拠となる関東軍の直接の資料も、存在する。秦郁彦『日中戦争史』の「付録資料」を使わせてもらう。まず、関東軍参謀部「対内蒙施策要綱」は1935(昭和十)年7月25日の日付のある、長文である。その中に、「航空」があり次のような“気炎”をあげている(できるだけ読みやすい表記に改めた)。
(関東)軍は主として満州航空会社を指導し、西ソニット飛行場およ張家口飛行場を基礎とし、外蒙方面、百霊廟、綏遠、包頭、なしうれば新疆および青海方面に至る航空路を開拓し、外国経営欧亜連絡航空を排撃して、これに代わり対外蒙工作に資せんことを期す。この「対内蒙施策要綱」に基づいて、関東軍参謀部は翌年1月には「対蒙(西北)施策要領」を作成している。その「第1 方針」の(一)は次のようなものである。
(関東)軍は帝国陸軍の情勢判断、対策に基づき、対ソ作戦準備のため、必要とする外蒙古の懐柔および反ソ分離気運の促進を図るとともに、・・・・・(満州国の基礎を固め、「徳王の独裁する内蒙古軍政府」を強化し、「その勢力を逐次支那西域地方に拡大し」)・・・・・これを根拠としてその勢力を綏遠に扶植し、ついで外蒙古および青海、新疆、西蔵などに拡大せんことを期す。これらは“怪気炎にまかせた作文にすぎない”としてまともに扱わないのは誤りだろう。いやしくも関東軍参謀部の「施策要領」として決定しているものであり、日本軍の勢力を「外蒙古および青海、新疆、西蔵などに拡大せん」と意図していたことは否定できない。意図が存在し、木村も述べているように何人もの「情報員」を派遣するところまでは、着手していたのである。
回教徒に対しては、満州国内回教徒および蒙古領域内の有力者を把握し、これを通じて、人心の収攬に努む。要すれば、内蒙内の漢民族地帯に、回教寺院を建設す。中国や中央アジアのイスラム教徒についての観点を、多くの日本人はほとんど持っていなかったし、今も持っていないと思われるので、小林不二男『 日本イスラーム史 』という本を取り上げておく。この本の「序文」は藤枝晃が書いている。
西藏族に対しては、蒙古人中の有力ラマを通じて、帝国の実状ならびに帝国の対満蒙政策の本義を知らしむるとともに、反英、反支、反ソ、日満依存に導く。
しかもこの内蒙地帯こそ、かのシルクロードを通じて東西トルキスタンの回教密住地帯へ接続し、さらに中央アジアの大草原ステップ地帯を横断し一路西進すればトルコのイスタンプールまで内陸つづきで到達する最短距離の起点に当たっている・・・(中略)・・・そして近い将来、新興ナチス・ドイツの西進と、日本の東進が地球の屋根パミール高原(葱嶺)あたりで握手もあながち不可能でない、という今から思えば淡い一場の空想さえ抱くようになったのもこの頃のことである。・・・(中略)・・・昭和14年頃から18年頃までイスラーム視察旅行といえば、まずどこよりも“内蒙地帯”と相場が決まっていたくらいであった。(前掲書p100)「西北」は中国大陸の西北部の意味であるが、「西北角」という語も使われていてタクラマカン砂漠を越えた新疆ウイグル方面を指すのが、この当時の本来の使い方であった。従って、「西北行」は新疆ウイグル方面への踏査の意味である。
戦争から最も離れた地点にあって、こうしてラクダにうちまたがり出発をはたした私の心は、解放感にうかれていた。冬のこんな時期に旅に出るなんて愚かしいとツェレンツォーがぶつぶつ言っても、私のこの幸せな気分に水をさすことにはならなかった。これで自分が[実験農場で]作った羊が魔物なんかではないとモンゴル人に納得させる必要もなくなった。それよりうれしかったのはこれ以上彼らに我らが同国人を好きになるよう説得する必要がなくなったことだ。これからは私も一介のモンゴル人、それ以外の正体を知られることはない。(『偽装』p50)「戦争から最も離れた地点」とはいいながら「敵国」へ潜入することには違いなく、日本人であるとの正体が割れれば拘束と烈しい拷問が待っており命はないものと覚悟する必要があった。一番身近なダンザン夫妻はダワ・サンボが日本人であることを知っているのであるから、身内から秘密が漏洩する可能性もあった。
青海省東部の肥沃な谷を旅していく間、この地方が実によく治められ、平和が保たれていることに気づいた。森林の保全を呼びかける標識があちこちに見受けられ、苗木を植えるために派遣された一群の兵士の姿があった。・・・・・・青海省は、共産党の支配地域を除けば、阿片の栽培もその運搬も法で厳しく禁じられている数少ない地の1つであることを誇っていた。(『偽装』p90)(ここはアヘン栽培に言及している珍しい個所でもある。アヘンについては第5節で述べる)
漢、回両族は・・・・・・タングート族、蒙古人を・・・・・・圧迫征服して[自族の]統治下に帰せしめようとしているだけで、孫文の民族平等の思想により共同の解放を図ろうなどということは見受けられず、蒙古、タングート族の宗教上の中心地であり、莫大な土地、財産の財源をもっているこのタール寺をも、常に隙さえあればどうにかして、自己の支配下に置こうと、きゅうきゅうとしていたのである。(『秘境』p197)タール寺のラマ達に人頭税として年に銀貨十枚、自動車路建設に蒙古人・タングート人だけでなくタール寺のラマ達も徴発されていた。家屋税の徴収も予定されているという。強制的な徴発労働はいうまでもなく少額たりといえども徴税されているラマ廟というのは他にはまったくないことである、と西川は述べている。(タングート人は東西交易路を押さえ、11世紀に西夏を建国した民族ということになっているが、それほど明確に判明しているわけではないらしい。平凡百科事典では「6世紀より14世紀にかけて中国西北辺境に活躍したチベット・ビルマ語系の部族。・・・・・・1227年に西夏が滅んだのち,タングートは色目人の一環として元朝治下に入り,軍事面をはじめ,官界,さらには文化・宗教の面でも活躍したが,元朝滅亡後,まったく歴史的役割を失い,タングートの名称も清代にはチベットをさすことに転化した。」などとしている。
クンブム僧院にいた間に、私たちは幸運なことに、パンチェン・ラマの候補者のひと りであった少年[6歳]の推戴式に参加することができた。パンチェン・ラマは、ラサの西方10日の旅程の町シガッェにあるタシルンポ僧院の座主であり、阿弥陀仏の化身といわれる。チベットでは、パンチェン・ラマはダライ・ラマに次ぐ第2の高位活仏として尊敬されている。先代のパンチェン・ラマは、ひさしくダライ・ラマ13世と対立関係にあり、悲劇的な生涯を送った。両ラマは和解を望んでいたにもかかわらず、貪欲な[チベット宮廷の]官僚たちと中国人が政治的理由から2人を切り離しつづけたのである。先代のパンチェン・ラマは、亡命の身のまま1937年にチベットの国境の町、玉樹[ジェクンド]の近くで没したが、その転生者をめぐって新たな抗争が生じつつあった。この少年は、1948年になってラサからも、中国からもパンチェン・ラマ7世もしくは10世として正式に認められた。7世というのはラサ政府の、10世というのは中国とシガッェの「パンチェン・ラマ行政府」の数え方。(なお『潜行』でも同じ推戴式のことが書かれているが、少年を11歳とするなど、相異が見られる。)
クンブム僧院で推戴式をあげたのは、身体の徴や先代の持ち物を見分けるといったテストに合格した3人の候補者中のひとりにすぎない。しかし、この地方の人々の熱狂ぶりから判断するに、誰もがこの候補者をパンチェン・ラマの転生者として喜んで受けいれているようであった。彼ならば自分たちの手中に収めておけるという理由で、馬歩芳や中国側もこの選択に好意的であった(『偽装』p99)
チベットにいる中国人1人を養う費用は、中国にいる中国人4人分に匹敵する。チベット人民は何故彼らのためにその経費を背負わされねばならないのか?何故その全てをチベット自身の発展のために有効に使えないのか。チベット人民は、無能な中国人の大量移住政策のために多大の苦しみをこうむっている。数千人の中国人チベット移住で始まった人口は、今日その何百倍(注:現在までにチベットに移住してきた中国人人口は、700万人を超え、チベット人600万人を遥かに凌駕している)にも達している。初期の頃勤勉に働いてきたたくさんの古参中国人が今その実績を認められないまま朽ち果てているのもこの政策のためである。今日、中国人は一家もろとも移住してきており、あたかもアメリカへの出稼ぎ人同様ひたすら“金”のために働き死んでゆく。なんと馬鹿気た話ではないか。パンチェン・ラマ10世の生涯を概括しただけでも、チベットにおいて活仏制が生きていることがわかる。したがって、活仏制を決して「単なる珍奇な宗教遺制」だと考えてはいけない。中国当局はそのことをよく認識しているからこそ、パンチェン・ラマへの弾圧の手をゆるめないのである。
数年前までは、青海蒙古と新疆天山蒙古とはタクラマカン砂漠を横切って自由に往来できたが、一昨年ごろから新疆のカザフ族が反乱し、交通は途絶した。カザフは青海蒙古に侵入し、無数の蒙古人を殺し家畜を掠奪した。・・・・・・トルクシブ鉄道アヤグズから西北公路を通じて重慶へ送られる米ソ援助物資を新疆バルク近くのカザフ族が数回にわたりトラックぐるみ掠奪したので、蘭州朱紹良の中央軍が出動してカザフを討伐したらしい。(『潜入』p67 ただし、原文では「コサック族」が使われているが、引用では「カザフ族」とした。35年ほども後に出版された『偽装』では「カザフ」で統一されているし、それが正しい。)(「トルクシブ鉄道」はシベリア鉄道とトルクメニスタンを結ぶ中央アジアを走り、カスピ海まで出る鉄道。1930年頃に建設された。寺田寅彦の随筆『柿の種』(1933)の中にも
新宿、武蔵野館で、「トルクシブ」というソビエト映画を見た。中央アジアの、人煙稀薄な曠野の果てに、剣のような嶺々が、万古の雪をいただいて連なっている。とあったりして、いま我々には耳慣れない鉄道名だが、昭和10年頃は案外知られていた可能性がある。「アヤグズ」は ayaguz で、アヤグーズとも。セミパラチンスクのソ連核実験場の放射能汚染で出てきた地名のようです。インターネットで検索するといくつかヒットします。)
その荒漠たる虚無の中へ、ただ一筋の鉄道が、あたかも文明の触手とでもいったように、徐々に、しかし確実に延びて行くのである。
難しい決断の時が迫っているのは明かだった。私としてはあくまでも使命遂行の道を、新疆行きを選択したかったのだが、タクラマカン砂漠横断が予期した以上に容易であっても、カザフ族の存在があっては新疆到達は見込み薄である。この私のために友が死の罠に足を踏み入れでもしたら?しかし私一人でどうして旅に出られよう。これほど危険な時代に新疆へ向かうキャラバン隊などあるはずはなく、私にはダンザンの経験が必要なのだ。(『偽装』p122)迷っているうちに、ツァイダム盆地のチャガン・オスでイスラム軍から嫌疑をかけられ、木村一行3人(木村とダンザン夫妻)は捕らえられる。監禁されたのではないが、疑いの晴れるまで出発が禁じられた。その嫌疑というのは、イスラム軍兵士に護送されて内モンゴルへ送還される巡礼の一群があり、3人はそれからの逃亡者ではないか、というもの。イスラム軍の指導者のバーブウ・ノインのもとで足止めされ、この年(44年)をツァイダム盆地で過ごすことになる。
翌日ダンザンと私は、わずかな期間ながら私たちのゲルをあれほど活気づけてくれた赤ん坊の遺体を雪の中に捨てに行った。何年にもおよんだ旅をすべて振り返ってみても、これほどわびしい日はなかったと思う。・・・・・・私にしてみれば冷たい地面のうえに赤ん坊の遺体を置き去りにして野生動物に食わせるなどむごすぎると感じられたのだが、逆にモンゴル人にしてみれば冷たい地面の中にうめて徐々に虫に食わせるなど考えるだにおぞましいことらしい。歩きながら、私たちは黙したままだった。・・・・・・そして何よりも憎んだのはこの素っ気ない、非人情な葬法だった。祈祷さえ行わないのである。赤ん坊ならその程度でいいということなのだろうか。・・・・・・私たちは崖の下に穴をみつけ、そこに赤ん坊の遺体を置いた。雪原に風が渦巻き、崖に吹きつけた。ダンザンの顔は見なかった。・・・・・・数日後、薪を集めに外に出たおり、穴をのぞいてみると、遺体は消え失せていた。ダンザンは決してそのそばに近づこうとしなかった。(前掲書p148)陽気だったツェレンツォーがすっかりふさぎ込んでしまい、大がかりな「悪魔封じ」の儀式を行ったりする。
内蒙古に来て私がまず不思議に思ったのは風葬の習慣である。各家庭には仏壇も墓もない。葬式といえば死者を草原に捨てて鳥獣のついばむにまかせ、早く白骨化するのを成仏したと喜ぶ。祖先の墓を崇拝する習慣などさらにない。(『潜行』p20)もう一例、磯野富士子『冬のモンゴル』の始めのところに、風葬について感想を述べているところがある。彼女自身は「気味悪く無慈悲なものとばかり思っていた風葬」について、サニット・ラマという高僧の説明を知って、「なるほどとうなずける」ようになった、と書いている。その高僧は「決して死人を野に捨てるという意味ではなく、自分の愛する者のなきがらを大自然の中におくという敬虔な心持ちなのだ」と言っていたという。また、自分の恩師の死体をおいた風葬場の、恩師の頭から左1mほど離れたところに「オンマニ・バトメ・フン」(日本の南無阿弥陀仏にあたる語)を自分で彫った石が置いてあって、そこに水を撒いて礼拝していたという(前掲書p24)。
[満州事変後]その頃内モンゴルでは、漢人の入植によって牧地を奪われたモンゴル人たちの間に、民族主義的な自治運動が起こっていたが、これを利用して内蒙古にも勢力を伸ばそうとした日本は、1939年ついに西スニットの族長デムチュクドンルプ、つまり徳王を主席とした蒙古連合自治政府を創立したのであった。今西錦司ら西北研究所に直接関係した研究者からこういう反省的な語は、(管見の範囲で)見ていない。
しかし、「自治政府」とはいうものの、実際には、日本人の最高顧問をはじめ、各旗には日本人顧問が置かれ、また、連合自治政府の軍隊にも、やはり日本軍人の顧問が配置されていた。・・・・・・折角の自治運動を日本に横取りされたモンゴル人の間に、広範な反日感情や、ひそかな抗日運動さえ起こっていたことが、現在では明らかになっている。
個人的には政府や軍部とはまったく無関係な研究のつもりではあったが、西ウジムチンに入ることができたのは、その土地の「日本人顧問」の方々のお世話を受けたからに外ならない。・・・・・・
この本に出てくるモンゴルの友人たちが、私たちをどう見ていたかは、知るすべもない。ただ、1つの国が他の国を直接に、あるいは間接的にでも支配している場合には、それぞれの国に属している個人の間の友情は、本当には成り立ちえないことを痛感するとともに、あの人々が対日協力者としてひどい目にあわなかったことを切に願うばかりである。(前掲書p239〜241)
徳王は立派なお方だ。だが中国人と日本人に敵対できるほどモンゴル人の数は多くない。・・・・・・中国軍が弱体化しはじめると、徳王は頼るべき相手を日本に乗りかえた。日本軍を利用して中国人を追い出し、それがすんだら今度は日本人を追い出せばいいという目論みだったのさ。ところがどっこい、やつらは抜け目がなかった。徳王より一枚上手だったのさ。今じゃ徳王は日本軍の手中にあってていのいい操り人形だ。自治政府と称するものの、実権を握っているのは日本人だ。やつらはずるがしこい貪欲な民族だよ。・・・・・・あんな愚かな[日本]民族がどうしてわれわれを支配できるのか疑問だね。だが、そう遠くない日に、奴らも足下をすくわれて愕然とするだろうさ。(『偽装』p151)木村は40年も前の話を思い出しているのだから、この日本批判が語句としてそれほど正確に再現されているとは考えられないが、このモンゴル人の男はダワ・サンボー(木村)を完全にモンゴル人ラマと思って日本批判を喋っていた・・・・・・そういうことの真実を疑うことはできない。
初めて日本から北京へ行く途中、私は朝鮮と満州の国境を越えた。朝鮮人の若い税関吏が私のスーツケースをあけながら、名前と目的地を質問した。十代特有の、世界はおれが救うという思いあがりにとりつかれていた私は、モンゴル独立のために闘っているモンゴル人たちを手助けしにいく途中だと答えた。生まれてこのかた日本の統治下で生きてきたに違いない税関吏はそれに対して一言も答えず、当時の私には理解できなかった、だが忘れようもない奇妙なまなざしを私に投げかけた。あれから数年たった今、私はようやくそれが何を意味していたのか理解しはじめたのである。・・・・・・興亜義塾、実験農場、西北行の計画、そして旅。こうしたことをすべてただ自分のために行ってきたのではないかという疑問が拭いされなかった。(『偽装』p152)完璧といってよいほどにモンゴル人ラマに「偽装」して「敵地」深くへ入り込んでいる防諜員として、木村はいわば裏側から日本軍の占領の実状を見るのである。そして、そこで被占領民衆の生の声を聞く。生の声をなんの警戒心もなく木村の前で喋るくらいに彼の「偽装」は完璧であった。木村はそのことによって「二重の視点」を身につけざるをえない。モンゴル人ダワ・サンボーとしてモンゴル民衆の視点を、木村肥佐生として日本人防諜員の視点を。この「二重の視点」は深く身についてしまったものであって、防諜員としてそれを使い分けるというような自覚的操作の対象ではなかった。というより、彼は何ヶ月も何年もモンゴル人ダワ・サンボーになりきってモンゴル民衆の中で生活を続けており、自覚的操作を必要とする場面がなかったのである。第1節で「地元の人々と深い絆を培い、結果として軍部と対立することになった」という木村の述懐を引用しておいたが、そのよってきたる淵源がこの複眼的視点にあることは確かだ。
バーブー・ノインに、自分はすっかり元気になった、いつでも出発できると叫んでいたからね。てっきりその次には日本語でまくしたてて、正体を暴露するに違いないとヒヤヒヤものだった。でも何かがあなたをおしとどめたようだ。(『偽装』p158)と言った。木村は、次のようにそのときの自分の気持ちを説明している。
すると目的地はラサと決まったわけだ。自ら決断せずにすんでかえってほっとした部分もあった。新疆ウイグルへいくのは不可能だとわかっていても、任務ゆえに、西に行くことに拘泥していたのである。今のこの状態ではラサ行きに反対する力はない。また新疆を諦めざるをえないのならラサ行きは残された最上の選択だと自分を納得させることもできた。ラサからならば、さらに南方インドに、敵の領土の真っただ中に潜りこむことができる。(『偽装』p158)45年の5月である。23歳の頑健な青年である木村は、ラサへのキャラバンの中で、みるみる健康を回復する。
すでに賽は投げられた。この目でラサを見られるという期待に多少浮かれてもかまうまい。またしても私の心の中では、2つの視点が相争っていた。モンゴル人としての私は、アジアで最も聖なる寺に参拝できることに心をわくわくさせ、日本人としての私は、高名な探検家たちの足跡をたどりつつあることに興奮を感じていた。もちろん私はラサに入る最初の日本人ではない。だが、よもや自分が共産中国が到来する前のラサをこの目で見た最後の日本人になるとは思いもよらなかった。(『偽装』p163)
柳条湖(溝)事件 | 1931年 9月 |
満州国建国宣言 | 1932年 3月 |
熱河作戦開始 | 1933年 2月 |
日本軍華北へ侵入 | 33年 4月 |
塘沽停戦協定 | 33年 5月 |
幣制改革発表 | 1935年11月 |
冀東防共自治委員会 | 35年11月 |
冀東防共自治政府 | 35年12月 |
36年2月に冀東政府は低率の査験料を徴収して密輸入を公認し,人絹,砂糖をはじめ大量の密輸品が天津の日本租界を経て中国各地に流入した(冀東貿易)。アヘンや麻薬の密売も盛んに行われた。これらの収入の一部は日本軍の工作費に使われた。中国の関税収入は激減し,中国企業や外国の貿易業者も打撃をうけ,抗日運動をおし広めた。(今井清一「平凡社百科事典」)「冀東貿易」は明瞭に国際的ルールに反していることを日本は鉄面皮に実施していたのだから、世界諸国から非難を浴びる。たんにルール違反への非難というより、中国の関税収入が激減したことで、世界の有力各国が実際に経済的に被害を被ったという面もある。
第1回蒙古自治準備会議 | 1933年 7月 |
蒙古軍政府 | 1936年 2月 |
蘆溝橋事件 | 1937年 7月 |
察南自治政府 | 37年 9月 |
晋北自治政府 | 37年10月 |
蒙古連盟自治政府 | 37年10月 |
蒙彊連合委員会 | 37年11月 |
蒙古連合自治政府 | 1939年 9月 |
アヘン政策の目的は、何よりも、その生産・販売によって巨利を獲得することにあった。アヘン収益の使途は、蒙彊政権の場合、表向きは政権維持の財源に充てられたことになっているが、その実態は秘密のベールに包まれて不明である。また収益とされる金額そのものも、どれだけ正確であるか、無条件には信用できない。ともかく、そこには巨額のブラック・マネーが獲得され、運用されたのである。(江口圭一『日中アヘン戦争』p207)読みやすいと言えば、小説だが西木正明『其の逝く処を知らず−阿片王・里見甫の生涯−』(2001)もお勧め。上海を中心にしたアヘン密貿易に従事した里見甫をめぐり、日本軍・日本政治家・三井/三菱などの財閥・官僚・青幇[チンパン]等々が暗躍する。
いくら草原での生活を享受し、鉄道の通る町よりも草原に身をおくことを誇りに思っ ていても、1年に二度めぐってくる休暇ほど心ときめくものはなかった。この時ばかりはシラミのたかったモン ゴル服を脱ぎ捨て、貨車に乗って二日の張家口[カルガン]の町にくりだす。・・・・・・こうして夜の町にくりだしてみれば、何故張家口が日本人居住者にこれほど人気があるのかわかろうというものだ。歓楽街には若い男が望むすべての欲望と幻想が存在していた。・・・・・・私のポケットは6ヶ月分の給料ではちきれんばかりになっており、相手は日本人、中国人、朝鮮人の玄人とよりどりみどりであった(モンゴル人だけはいなかった。土地もそうだがモンゴル人にとって性を売買することなど考えられないことだった)。・・・・・・母国語を同じくする女と臥床を共にするのもくつろげたが、話ができることが最優先というわけでなく、私は専ら中国の娼館を愛好していた。・・・・・・ここのエキゾチックな雰囲気が気に入っていたのだ。客はまず阿片をすすめられ(これはいつも辞退した)、次ぎに名前が読み上げられるとともに女の子が登場する。そこで客の方もじっくり敵娼[あいかた]を選べるというものだ。(『偽装』p40)すでに第3節で、木村がアヘン栽培に言及している個所を引用しておいたが、木村の著書(『潜行』と『偽装』)でわたしが気がついているアヘンに言及しているのはこの2個所だけである。(西川一三の『秘境』では、わたしは気がついていない)
冀東地区から、ヘロインを中心とする種々の麻薬が、本流のように北支那5省に流れ 出していった。全満州、関東州は、冀東景気で沸き返った。徴兵検査前の日本人の青少年がヘロイン製造と販売のいずれかにちょっと手を染めるだけで、身分不相応な収入を得ることができ、彼らの遊び興ずる姿が、天津の花柳街に夜な夜な見受けられるようになった。大連の花町やダンスホールなどは、当時の金で一晩に数百円の遊びをする青年達によって埋められた。(引用は『日中アヘン戦争』p52 から重引)第1節で、木村が徴兵検査の検査官が良心的であったことを述べたところで、「すくなからずの若者が快楽産業に関わっていた。つまり売春宿に女の子を斡旋し、ぽんびきをやっていた」というところを引用しておいたが、そこでおそらく木村は「アヘン産業」に触れるのを意識的に避けたのだと思う。この内山三郎の赤裸な文章は、逆に木村や西川がいかに非凡であり、「ロマンチックで、信じられないほど純真で理想に燃えていた」かを証明しているといえる。
まず私たちは一番気がかりになっている質問を彼にたずねた。木村は中国語のできるジンバとともに蒙藏委員会(国民政府の駐チベット機関)に確かめに行くと、情報宣伝係の中国人は上機嫌で「そのとおり、日本は負けたのだ、無条件降伏でネ。国府軍は連合軍といっしょに日本を占領しているよ。」と説明してくれた。それだけでは得心がいかず、英国代表部にも行って確かめると、シッキム人がチベット語で「日本は確かに無条件降伏しました。戦闘停止命令は2週間前、天皇自らだされました。」と説明してくれた。「都市ひとつを1発で完全に破壊できるだけの新型爆弾の話はそこで耳にした」と木村は『偽装』(p192)で述べている。
「戦争はどうなったのか」
と。彼によると、ラサに住んでいる中国人の話では日本が負けたという。しかし、講和が成立して戦争の勝敗はなかったといううわさもあるという。どの話が本当かわからない。とにかく、戦争が終わったことだけは事実らしい。(『潜行』p136)
私は足元からスーッと血がひくような感じがしたが、「そんなバカなことは絶対ない」とひとり心の中で思った。・・・・・・帰る道すがらジンバがしきりに慰めようとする。しかし、国家意識のない彼らには(ラマの大部分が宗教のほうが国家より大事だと考えている)この気持ちはわかるまい。しかし、心のすみにはまだ信じられない気持ちが強い。デマかもしれない。そうだ。すぐインドへ行こう。インドへ行けば正確なニュースがわかるにちがいない。ビルマには日本軍もいるだろう。(『潜行』p136)「ラマの大部分が宗教のほうが国家より大事だと考えている」という木村の注記が興味深い。ともかくこの段階の木村は、日本敗戦のニュースを半信半疑で受け止めようとしている。「デマかもしれない」し、部分的な敗北があったとしても日本軍が全面的に敗北することは「絶対ない」。ビルマの日本軍までが敗北するはずがない、という気持ちなのである。『偽装』では、この時の気持ちを次のように詳しく述べている。
バーリン・ジンバの慰めの声もほとんど耳に入らず、戻るべき国すら失ったのではないかという疑念が頭の中を堂々巡りしていた。子供の頃から「皇軍は退却することを知らず」とたたきこまれてきた私である。植民地支配にいかに失策があろうと、個々の高級官僚がいかに貪欲な表情を見せようと、われら一兵卒は天皇の地にひとりの敵兵も足を踏み入れさせてはならないと堅く信じ込んでいたのだ。(『偽装』p192)インド仏跡巡礼を強く希望しているダンザン夫妻とともに、木村はラサ見物もそこそこに、初めてのヒマラヤ越えをしてインドに出る。9月20日にラサを出発し、カリンポンに着いたのが10月16日である(カリンポン Kalimpong はヒマラヤ南麓のダージリン近くの町)。
安心なされ。戦争は終わりましたぞ。盗人[ぬすっと]どもはあんたの土地から逃げだしはじめてますぞ。日本人はみな故郷に送りかえされとります。これから日本は外国の統治下に入るとか。(『偽装』p202)木村はその晩、グル・ダルマに案内されて映画を見に行く。メインの劇映画の前に流されるニュース映画を見て、日本の敗戦が否定しようのない事実として迫ってくるのを覚える。
映しだされたのは廃墟だった。英語のナレーションはほとんどわからなかったが、展開されるシーンを見ればいわんとすることは明かである。最初に映しだされたのは完全に焼け野原になった東京を航空撮影したものである。形を留めているのは皇居だけだった。かつて大東亜共栄圏政策を誇らしげにも傲慢にぶちあげた東条英機首相は自殺未遂、米軍のMPの傍らにあってひときわみしぼらしく、萎縮して見える。それに続く画面では、日本兵が日本兵としてはありえざる行為を行っていた。自ら武器を敵軍に渡して投降していたのである。この瞬間から木村の戦後がほんとうにはじまったと言ってよいだろう。木村はビルマ方面で日本軍と闘って手柄を立てたグルカ兵が、ぞくぞくと復員してくるカリンポンのにぎわいのなかで、1週間くらいカンチェンジュンガの偉容が目のあたりにできる「町の後にある丘に登って大岩を見つけ、ひがな一日じっと腰を下ろしていた。何かを考えられるどころか、恥辱と苦悩の波がひたひたと押しよせてくるのを感じるのみ。」と書いている。
ニュース映画のなかでも最悪だったのは、焼け野原にになった都市の貧困さであった。ぼろを着た人々が必死になって廃墟の中を生きぬこうとしている。日本が誇る新しい工業文明はどこへ行ってしまったのだ?植民地による領土拡張主義の成果として「日本人全員にもう一杯のご飯」が約束されていたはずなのに、あれはどうなってしまったのか?私とてその謳い文句を信じてモンゴルに脚を踏み入れたというのに。(『偽装』p203)
日本人は命令とあれば盲目的に、考えもなくそれに従うことで有名だが、モンゴルへ行く前の私は、自分はそんな同国人とは違うと自負していた。だが今ではそんな自負心も何も役に立たなかった。いやもっと始末に悪い。私ならこの敗戦の恥辱を前もって予期してしかるべきだったからだ。「大東亜共栄圏」の幻想は私たちの足元に崩れ落ち、その実態を曝け出した。1930年代に内モンゴルの蒙政会会議に出席した内モンゴル人の言葉がおのずと脳裏に甦った。「今、大勢のモンゴル人が日本軍の制服を身につけ日本に訓練に行っているがね、いつの日か、この連中が別の制服を身につけて、日本人を逆に海の中に叩きだすだろうよ」。彼は正しかったのだろう。占領地の人間と友情を結んだ日本人もないではなかったが、一般論を言えばあれほど苛酷な統治をしいた相手から忠誠を期待できるはずもなかった。(『偽装』p205)「蒙政会会議」に出席した男の日本批判は、わたしはすでに第5節で引用し、検討した。そこで「モンゴルへ行く前の私は、自分はそんな同国人とは違うと自負していた」というのが、渡満旅行の列車の中での“モンゴル独立の手助け”と言ってしまったエピソードに結びつくことなども紹介しておいた。
人間が自分の存在感を少しでも味わうためには、ひとつの集団に属する必要があると言われる。あれこれ言っても私の人生は全知全能の天皇陛下の保護のもと、日本という国家に属しているという仮定のもとに成り立ってきたのだ。それを自己欺瞞と呼びたいなら、呼ぶがいい。いずれにせよ、すべては終わった。心になかにぽっかりとあいた穴を埋めるものはなにもない。モンゴル人のふりをしてみても所詮私は偽モンゴル人にすぎない。モンゴル人が第一に忠誠を誓うのは宗教であって国家ではない。ダンザンやツェレンツォーがごく自然に吐露する信仰心の類を私は一度たりとも感じたことはなかった。ならば、私はいったい何者なのだろう?(『偽装』p206)「ラマの大部分が宗教のほうが国家より大事だと考えている」という『潜行』の語句を少し前で示しておいた。木村は天皇制国家が崩壊したことを知り、自分が世界に出ていく根拠と考えていたものがすこしも根拠たり得なかったことに気づいた。そして、国家より宗教に価値をおくダンザンら多数のモンゴル−チベット人たちの方が、人生のより深い根拠に足をおいた生き方をしているのではないか、という真摯な自問が沸きおこってきたのである。この問は、近代の日本人たちがみな等しく、敗戦において問わなければならない自問であったはずである。“国家に足をおいた生き方というものは、浅い生き方ではないのか”という。
チベット人の思考に影響を与えた最初の新聞といえば、「チベット・ミラー」紙である。1925年10月にカリンポンでG.タルチンによって創刊された。・・・・・・“私は初版はラサの友人たちへ50部送った。その中にはダライ・ラマ13世も入っていた。”(「Tibetan Review」1975年11月)。タルチンは1927年にダライ・ラマからの親書を受け取っている。それには“きみが中国や英国のニュースを毎月送り続けてくれれば、自分が色々な情勢を理解するのにとても助けになる”とあった。チベットへの中共軍の侵攻があった1949年のタルチンについて、あるアメリカの記者が「毛沢東とたったひとりで闘っているみたいだ」と評したという。なお、タルチンは自分の新聞社チベット・ミラー・プレスから『英語・チベット語・ヒンズー語辞典』(1968)などを、4冊出版しているのがインターネット上で確かめられる)。
タルチン・バブーは“それは、すくなくともラサに住むチベット人が、外の世界の変動をまず知るたった一つの手段だった。中国革命や第2次世界大戦やインドの独立などについてね。だから、その影響力は実に大きなものだった。”と、回顧している。
こうしてカリンポンは私たちの第2の故郷となった。敗戦のショックから立ち直ってみると、これほど多くの文化が一堂に会し、東西のエッセンスを結びあわせた快適な土地は、インド中さがしてもあるまいと思われた。カリンポンはインドとチベットの交易の中継地点であり、船にとって港がそうであるように、キャラバン隊の終着地点であった。長い年月「チベットの港」として知られ、ヒマラヤ地帯でももっとも活気のある市場の1つであったカリンポンは、またマルコ・パリス、ジョン・プロフェルド、アレキサンドラ・デヴィッド=ニールのような高名な西洋人学者や探検家たちの基地や出発点になった。第1回の入藏をはたした河口慧海は1902年にここに脱出してきている。1910年の中国軍侵略の際、ダライ・ラマ13世はカリンポンに亡命し、後にここからラサに凱旋帰還を行って正式に独立宣言を行った。20世紀初頭チベットにあった日本人、青木文教、多田等観、矢島保治郎、寺本婉雅らはみな何らかの形でカリンポンに縁があった。そんなカリンポンに住むこと自体、偉大なる伝統の後継者になったような気分にさせられたものである。(『偽装』p214)1945年11月のある日、木村はタルチンに、内モンゴルからインドまでの「旅行の略図を書いて、当時各地がどの勢力の支配下に属し、どのくらいの軍事力を保有していたか簡単な説明をつけるよう頼まれた」(前掲書p216)。指示のままに地図を書いて渡した。数週間後に、タルチンは木村をひとりの英国人に引き合わせた。インド東北辺境区の情報部長であったが、「われわれなら、きみが故郷内モンゴルに戻る手助けができるが・・・・」と、暗に協力を求められた。木村は自分の正体が割れていないことにホッとするとともに、インドからより内モンゴルからの方が日本に帰りやすいだろうと考えて、好都合だと思う。来春から英語の学校に通わせてやるといわれ、それまでチベット語の上達に専心するように言われた。
私たち2人は興味の対象こそ似通っていたが、それでも多くの点で異なっていた。言葉と旅の分野では私は自分のなしとげたことを誇る権利があると感じていたが、それでもある面では西川氏に先んじられていることは認めざるをえなかった。たしかにモンゴル語の発音にかけては、彼よりも私の方が上だ。そのせいもあって彼は中国化した地域(そこではモンゴル語もなまっている)の出身と称していた。だが、彼は実際に僧院生活をおくった経験から、私とは比べものにならないほどチベット語に、特に古典チベット語に通じるようになっていた。彼ならなんなく僧侶を装うことができた。実際的な理由があったとはいえ、彼は本物の僧侶だったのだから。そして西川氏自身が誇らしげに言ったように、彼は中央アジア全域を徒歩で歩き通している。新たな土地を自分の目で見、新たな知識を増やしていく以外の野心は彼にはないようだった。そして彼は肉体的な苦労なら相当苛酷なものでも平気でこなせるたちだった。(『偽装』p223)木村の西川評については、後にもう一度取り上げるが、冷静で親切な評価がなされていると思う。これに対して西川は長大な『秘境』全3巻のなかで、このような木村評はしていない。自他の距離を意識している知識人としての木村と、体ごと状況へ入り込んでいく西川との個性の違いを、そこにも見ることができる。探検記としては西川『秘境』の方が断然面白いと言っていいだろう。
生徒の90パーセントはアングロ・インディアン混血児である。他に若干の英人、ネパール人、チベット人の生徒がいる。チベット貴族の子弟もいる。(『潜行』p176)木村は、大英帝国の余映の残るこの学校の恵まれた環境で英語習得に全力を挙げることになる。次の引用で、木村のこの学校の提供してくれた環境への評価と敬意を読みとれるのではないか。
私は毎週土、日を除き、パムフィールド夫人という教師から毎日、2,3時間の英語の特別レッスンを受けることになった。図書室も自由に使うことを許された。私は日本でもミッションスクールを出たので、英語は比較的よくできた。ただ、蒙古語の勉強で長年遠ざかっていたのでいくぶん記憶が薄れかかっていたのが、語学の勉強は好きでもあるので、寝ても覚めても英語の勉強に熱中した。(『潜行』p176)更に好都合なことに、丁度このころタルチンを頼ってきた英語を喋る端陽(トワンヤン)という同年輩の青年と同居することになる。彼は父が中国人、母がチベット人の孤児で、オランダ人学者の援助で大学教育も受けたという英才で(後、ニューヨークで『Life of Hill Boy』というインド放浪記を出版した)、「きれいな英語」を喋った。「彼と同居したことは、私の英語会話を進歩させるのに大いに役にたった」と木村は書いている。このようにして修得した木村の英語の能力は、帰国後に生かされることになる。
2ヶ国語を習得しなければならないため、脳味噌の方はまさに狂乱状態だった。タルチンは仕事より勉強の方が大切とみなしているらしく、しばしば私がやるべき仕事を端陽[下記]に回し、勉強に励むよう叱咤激励してくれる。その結果、カリンポンに滞在しはじめて約1年後の1946年の末には、モンゴル語ほど流暢にはいかなかったが、チベット語はかなり、英語も不自由しない程度に話せるようになっていた。(『偽装』p232)
ヤートンの郊外で若い中国人に完璧な英語で話しかけられたときには驚いた。木村自身は「話の歪曲ぶりに仰天した」と書いているが、彼の英語能力が並々ならぬものであることは、わかる。(『偽装』p318)
「やあ、どこに行かれるんです」
・・・・・・(中略)・・・・・・
「どこでそんなに上手い英語をならったのかね」
またしても彼は落ち着きを失った。
「まあ、インドで習ったことにしておいて下さい」
その後聞いた話によると、かれはソビエトのシベリアに接した内モンゴル出身で、5,6年ほど日本で学んだこともあるという。
地下活動に関わっていたのはインド情勢を探るために派遣されていた中国人スパイが多かったが、その他、反政府活動を行うチベット人亡命者や活動家、反中国派のチベット人、白系ロシア人、共産主義のロシア人もおり、このこじんまりした閑静な町で雑多なスパイが各々の目的を秘めて暗躍していた。(『偽装』p233)第6節ですでに述べたように、タルチン自身が、チベット・ミラー・プレス社という新聞社で、当時唯一のチベット語新聞を発行しながら、イギリス情報部に深くかかわっていた人物であった。
英国はいまインド独立のための政権委譲の手続きに入っている、その隙に中国がチベットを侵略する心配がある。「チベットの東国境地帯を探査して、中国がチベットを軍事侵略する準備を整えているという噂が本当かどうか探り出して欲しい」(『偽装』p242)と。そして、この探査が危険なものであることを強調して、すでに2人を送り出しており、1人は病死、1人は行方不明になっている。木村で3人目であると語った。(後に、木村は自分にも英国が雇う現地防諜員として「ATS5」という番号までふられていたことを知ったと書いているが(p250)、それを知った経緯は明かしていない。ただ、「数十年後、私はロンドンのインド局図書館に1946年4月27日付の「チベット援助」と題された超機密文書が存在することを知った」と述べており(p243)、自分が英国のインド支配の手先として使われていたことを明確に掴んでいたようだ。)
普通ならこんなことを聞かされれば心配になるところだが、実際のところさほど気にならなかった。私自身苛酷な旅を経てきたこともあり、自分の能力には自信があった。心配なのは祖国日本に害を与えるような行為を行うことで、この場合、それはあたらないようだった。鍛冶屋にひとふりの剣を注文したり、「象牙を鋸で引くときにでる粉」をもらったりしている。これは、外傷の止血薬として珍重されるのだそうだ。残りの旅の準備はラサで行うことにして、すぐ、出発した。木村は1947年の正月にラサに着く。カリンポンからラサまで、カムパ族のキャラバン隊に同行するのだが、20日間かかっている。(カムパ族とはカム地方(東チベット)に住む民族)。
拾得したばかりのチベット語の能力をためすまたとない機会だし、おそらくチベットの独立保持のためにも役立つだろうツうがった見方をすればこれも圧政的な植民地政策のお先棒をかついだことへの、無意識の償いだったのかもしれない。(『偽装』p243)
(無一物となり、持ち物を売りながら食べつないでいる状態の他に)もうひとつの問題は、2人の間にたびたびケンカが起きることだった。こんな荒涼たる僻地に故国を同じくする2人の人間がいれば、お互いの絆も自動的に強まると思われるだろうが、私たちはことあるごとに角つきあわせていた。皮肉なことにもっとも深刻なケンカは(今から考えるとまったく馬鹿げたケンカなのだったが)私たちが日本人であるがゆえに起きたともいえる。ある日私は、天皇がいようといまいと、日本も日本人も生き残るに違いないと口をすべらした。すると西川氏(本来ならば反逆精神にみちた人物である)は天皇を戴かない日本を想像するなど、大逆罪もいいところだと反論してきた。私たちはモンゴル語で一日中、口角あわをとばして議論した。私たちのどちらもまだ天皇がおられるかどうかも知らなかったのにもかかわらずである。西川氏はよほど腹を立てたのか数日間口をきこうとしなかった。(『偽装』p280)この時の苦しい調査旅行の半年は西川も『秘境西域十年の潜行』のなかで書いているが、木村の落ち度を攻めるような書き方をしているところがある(下で少し紹介する)。それについて、木村は次のように書いている。
西川氏とは1950年代初頭復員局の共同部屋で一緒に暮らしていた間に仲直りをすることができた。西川氏はここで旅行記を書きはじめており、私たちは過去の出来事や場所を話し合って記憶を新たにした。原稿の一部を見せてもらったが、きわめて詳細に良く書かれていた。しかし、1960年代初頭、全3巻で出版された彼の旅行記の中には、悲しむべきことに、以前目を通した原稿の中にはなかった私への個人攻撃があまた記されていた。話を面白おかしくするために、編集者が首を突っ込んで、時にはさかまく嵐のようであった私たちの仲をわざわざとりあげさせたとしか思えなかった。西川氏の旅行記は日本でベストセラーになったが、彼の中傷によって私のアカデミックな経歴が傷つけられたり、モンゴル人やチベット人との友情が妨げられることなはなかった。(『偽装』p331)「個人攻撃」とか「中傷」というのがどういうことを指すのか、わたしは木村のこの部分を目にする前にすでに西川『秘境』全巻を読んでいたが、特に思い当たるところはなかった。「アカデミックな経歴」などと言っているのだから、政治的な判断や行動にかかわるようなこと、裏切り行為などを示唆していると思えるが、・・・・・・。
友[木村]は虫の居所でも悪かったのか、それともこちらの弱いところを見せたくなかったのか、2人がラサを出発した直後に、ラサで「セララマの反乱」というセラ寺のラマ数十名が死傷する事件があり、それの関係者ではないかという疑いが2人にかけられていた(この事件のいきさつについては木村『潜行』が詳しい)。チャンドゥに問い合わせるまでの2週間ほど、留め置かれることになった。
「なんだ、あいつらが・・・・・・」と機嫌が悪い。
「待てと呼んでいるのだから、待ったらどうだろうか。相手はバカでも役人だ。いま怒ったって仕方がないではないか・・・・・・」
(中略)
どこの国の官吏も同じで、威張りたい彼らにへいこらと頭を下げていれば良いのに。木村君の態度はますます彼らを怒らせ[尋問を受けることになる]。
[中略、隊長が西川と同じレボン寺出身のラマであったので、ふたりは蒙古人で、“ジェクンドオ(玉樹)を経て内モンゴルへ帰郷の途中だ”ということで話はうまくいきそうだったが、軟禁が命じられる]。その一つの原因は、木村君がチャンドゥ(昌都)の長官と会ってきたことを話したからである。(木村君は「我々はチャンドゥの長官に会ってきたのだから、下っぱのお前たちが」という気持ちがあったのである。)(『秘境』下巻p )
チャムドオから7日行程、メコン川の支流に面してツォルケ・スムド(スムドとは川がY字形になっている地形の意味)というところがある。ここがチベット政府と青海省との行政上の境界になっている。川の上に木造の橋があって扉がついている。私たちが橋を渡って行こうとすると橋のたもとに数人のチベット人がいたが、あごひげを生やした坊主頭の男がいきなり、「どこから来た、どこへ行く」と聞く。「ラサから蒙古へ行く」、「いつラサを出た」、「確か2月16日」、「よし、ちょっと用があるから一緒に来い」と私たちを引っ張っていった。(『潜行』p200)西川は、軟禁となった理由の1つは木村が「チャンドゥの長官に会ってきた」とたかびしゃな態度をとったからとしているところを、木村は次のように書いている。「私はチャムドオでユト総督に会ってきたというと態度がだいぶやわらかくなって、とにかく、チャムドオへ照会の手紙を出すから返事が来るまで出発はまかりならぬという」(同p201)
この辺の者は皆、中国領土へ移住したがっている。チベット政府はむやみに税金を取り立てる。その税金も本当に政府へ届いているか、だれにもわからない。オラー(賦役)といっては家畜や物をとられ、人をかり出して労働させ、食料は自分持ちで賃金は一銭もくれない。それに比べると川向こうの中国領の同じ東チベット人は、はるかに楽な暮らしをしている。毎年税金はきまっているし、賦役には賃金が払われる。(『潜行』p206)これが主人の話だった。木村は「チベットの封建制度の腐敗、末期的症状を、まざまざと見せつけられる思いがした。」と述べている。
チベットは1867年の明治維新が起こる以前の封建社会の日本によく似ていると私は思っていた。明治維新の特異な点は、王政復古、つまり天皇が再び権力の座につくことと、政治制度の抜本的な改革が同時になされたことにある。チベットも日本も鎖国している間に独自の文化を生みだした。しかし日本は近代化するにあたり、西洋の技術と知識の中から有益なものだけ吸収する一方、賢くも独自の文化を維持しつづけた。明治天皇をダライ・ラマ法王に置き換えれば、チベットを封建社会から近代的な議会制社会へ変革するにあたって日本はいいお手本になるのではないか?(『偽装』p297)プンツォク・ワンギュルと木村は、毎朝公園で会って、明治憲法の検討を始める。公園は立ち聞きの心配がないからである。木村が交易のためラサを離れている間に「プンツォク・ワンギュルは仲間とともに、新憲法の草案を練りはじめたという。それは明治憲法を参考に、貴族の権力を上院に制限するものであった。」(同p309)
私はチベット滞在中、革新的青年グループと知合いになり、彼らと協力してチベットの中世的封建政治を改革しようと意図していた。日本の明治維新を参考にして、世襲貴族や上級ラマからなる上院と、選挙された代表からなる下院の二院制度、及び廃藩置県をモデルに、貴族や寺院の領地接収とその代償としての処遇案などを提案した。また改革の根本精神として、五ヶ条の御誓文を翻訳したりもした(『潜行』p283)。この時の「革新的青年グループ」は全員チベットから追放処分を受けるわけだが、その「多くは、その後チベットに帰り活躍している」という。
戦中の天皇というのは今のダライ・ラマと同じで、つまり生き神様だったわけだ。生き神様のためなら死んでもいい、あるいは祖国のためだったら死んでもいいと思って、特攻隊を生み出したのである。日本も半世紀前はそうだったのだ。(『吉本隆明のメディアを疑え』2002)天皇制を考えるのに、チベット仏教の活仏制は重要な参考となる座標軸であると、わたしは思っている。
そこで、アッサムの鉄道工事に従事している退役軍人のネパール人に近づき、彼等の家族の一員となってビルマからパスポートを入手、潜入しようと計画を変更し、アッサムの鉄道建設工事の苦力の群れに身を投じようと決心した。(『秘境』下巻p386)西川は、工事現場に入るが「たいして骨の折れる仕事ではなかった」といっている。そもそもネパール人やシッキム人が日本人のように勤勉でなく、しかも、雨降りは休み。西川は付近の広い河や湖での「水泳と魚釣りで一日の疲れをいやし」、薄暗いランプの下で仏典の勉強に励んだ。西川は現場で人気があったらしくすぐに「苦力頭」に抜擢され、ネパール人から「ビルマに我々と一緒に行こう」と言われるようになっていた(同p389)。
桟橋に横づけになっているのは、横腹に日の丸を描いたまぎれもない日本の船である。中に入ると越中ふんどしにゲタをつっかけた船員がいる。その姿を見た瞬間、私はグッと胸を締めつけられるような感じがして涙ぐんだ。三輪船長に会っても話が思うようにできない。十年近くも日本語をしゃべらなかったためか、相手のいうことはよくわかるのだが、こちらがしゃべろうとしても、ことばがうまく出てこないのだ。実にじれったい感じがした。船長の横にいた人が、もうカラになりかけている下関ウニのびん詰をとり上げて、割り箸をそえ私にすすめてくれた。ウニをなめているうちに、迷っていた私の心ははっきり帰国に決まった。(『潜行』p278)木村は紙に「私の名は木村肥佐生。7年間日本語を話したことがありません」と書いたが、書くことには何の困難も覚えなかったと言っている(『偽装』p322)。そして、「私は日本に戻りたい」と書く。
彼が私に投げつけた言葉は短いものだったが苦々しさに満ちていた。彼の家族に義務を果たしたと信じていはいても、彼が私を裏切り者とみなしていると思うと、数ヶ月におよぶ刑務所生活がさらにつらく感じられた。(『偽装』p323)写真の下の文字は「1950年4月、カルカッタ警察に自首後、州監獄にて撮影」。この時木村は28歳である。(『偽装』口絵より)
なにかしら悲しいものを見たような気がした。いったん死を決して敵地域に潜入した若者にとっては、「望郷に泣く」とは捕虜になったと同じことだったからである。(『秘境』下p396)と感想を書いている。“「望郷に泣く」とは捕虜になったと同じことだったから”という感想をもらす西川が、GHQ治下の日本にスムーズに適応しようとしないのは当然のことだったと思う。
中国調査旅行の報告書は提出する必要がないといわれた。そして外務大臣吉田茂の名前で、「神戸上陸の日付を以て依願免職とする」の辞令と共に退職金1万3千円を支給された。私の給与は、終戦の3ヶ月前まで毎月横浜の正金銀行から郷里の実家に送金されていた。(同p284)日本の「外務省は私が提供できる情報にいっこうに興味を示そうとしなかった」(『偽装』p327)が、米軍はそうではなかった。
FBISは私の才能を効果的に使える職場であった。こうして私はまたしても第3国に雇われて情報活動の世界に足を踏み入れることになった。ただし今回は危険はほとんどなく、しかもかってない高給であった。仕事といってもモスクワ放送、ウランバートル放送、ペキン放送のモンゴル語放送を聴取して、ワシントンから指示された項目内容を英語で摘要を書き、一年に一度放送の性格を報告するだけの快適な職場であり(『偽装』p327)これは、善し悪しの問題ではなく、木村の世界に関わる仕方の、よって来たる結果が現れていると思う。“世界に情報から関わっていく”木村の仕方である。
私たちは[大東亜戦争に命を捧げる]自分自身を純粋で高貴な存在とみなしていたが,所詮偽りの大ゲームの中のひとつの駒にすぎなかったのだ。日本の軍部や政府は「大東亜共栄圏」の薔薇色の夢を描いて見せていたが、結局のところ私たちは悪しき他民族征服計画に携わっていたにすぎないことを、私は苦い後悔の念をもって思い出す。当初戦争の残虐さを気づいていたものはほとんどいなかったが、最後まで真実に気づかなかったからといってなんの弁解にもならない。この戦争の最大の悲劇は、日本が敗北したことではなく、我々が敗戦からほとんど何も学ばず、真のアイデンティティを見つけられぬままここまできてしまったことだ。(p340)わたしは上の木村にまったく同感する。「偽りの大ゲームの中のひとつの駒」という表現や、「我々が敗戦からほとんど何も学ばず、真のアイデンティティをみつけられぬままここまできてしまった」という表現は、何気なく読み流せるような語句ではない。
私たちはもっとも安易な道 を選んだ。米国人がいうところの民主主義を唯々諾々として受けいれ、米国と同じことを意図しているかのようにみせかけ、そうすることによって我々が犯した戦争犯罪について国家的に何ひとつ真剣に反省する必要がないとみなしたのである。日本が世界からうらやまれるような繁栄を達成したことは事実である。にもかかわらず我々が世界の大半から好かれず感謝されないならば、責めを負うべきは我々自身である。今日、日本企業は、他人の感情にまったく配慮することなく、自分たちの利益のためだけに過去我々があれほどの苦しみを与えた国々に考えもなく進出し、怒りにであって当惑している。こんなことが起きるのも、我々が引き起こした戦争について反省することなく、民族的アイデンティティを欠いてしまっているからだと私は思う。(p341)「米国と同じことを意図しているかのようにみせかけ、そうすることによって我々が犯した戦争犯罪について国家的に何ひとつ真剣に反省する必要がないとみなしたのである」という文章のなかで、力点が置かれているのは「国家的」という語である。木村は国家について、単なる「世俗的国家」にあきたらず何かしら「倫理的国家」たるべきことを期待していたといってよいと思う。
千葉国立病院に入院致しました。
長年の糖尿病の為に合併症がおこり、十余名の方達の輸血に助けられながら、ここでも3度の手術を受けました。手術後に麻酔科の先生が
「あなたの名前は。」
と尋ねられました。主人は暫く天井を見ておりましたが、しっかりした口調で
「名前は言えません。」
と申しましたので、驚いた私は咄嗟に
「ダワ・サンボです。」
と答えてしまいました。すると主人は、きつい目で私を見てから先生に、
「逃亡ではありません。潜行です。」
と低い力強い声で訴えました。これが最後の言葉となり、十月九日朝、力尽き、ダワ・サンボとして他界致しました。
1. | 木村肥佐生 | チベット潜行十年 | 中公文庫1982 |
2. | 木村肥佐生 スコット・ベリー編 | チベット偽装の十年 | 中央公論社1990 三浦順子訳 |
3. | 西川一三 | 秘境西域八年の潜行(上・下・別) | 芙蓉書房1978 新装版 |
4. | 磯野富士子 | 冬のモンゴル | 中公文庫1986 |
5. | 河口慧海 | チベット旅行記 1〜5 | 講談社学術文庫1978 |
6. | ダライ・ラマ | ダライ・ラマ自伝 | 文芸春秋1992 山際素男訳 |
7. | 今西錦司 | 私の履歴書 | 全集第10巻 講談社1975 |
8. | 江口圭一 | 日中アヘン戦争 | 岩波新書1988 |
9. | 江口圭一 | 資料日中戦争期阿片政策 | 岩波書店1985 |
10. | 岡田・多田井・高橋編 | 続現代史資料(12)阿片問題 | みすず書房1986 |
11. | 二反長半 | 戦争と日本阿片史 | すばる書房1977 |
12. | 倉橋正直 | 日本の阿片戦略 | 共栄書房1996 |
13. | 西木正明 | 其の逝く処を知らず 阿片王・里見甫の生涯 | 集英社2001 |
14. | 小林不二男 | 日本イスラーム史 | 日本イスラーム友好連盟 1988 |
15. | 秦郁彦 | 日中戦争史 | 河出書房新社1961 |
16. | 大杉一雄 | 日中十五年戦争史 なぜ戦争は長期化したか | 中公新書1996 |
17. | 吉本隆明 | 吉本隆明のメディアを疑え | 青春出版社2002 |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||